某日の夕方、鴨川でギターを弾いていたら、となりのベンチの前に父親と小学校低学年くらいの男の子の親子連れが自転車を止め、おもむろに野球の練習を始めた。
私が少年の振るバットの打球が飛んでこぬかと心配になった矢先、打球が私のギターに直撃した。ボールは遊び用の柔らかい庭球だったが、私の心臓は一瞬凍った。
父親は「すいません」と言った。私は「(ギターに)当りました」と言ってから、ボールが当った箇所をあらゆる角度から見て、ボールが当ったことで損傷がないかを点検していたのに、信じられないことにその父親は私のことはそっちのけで再び子供と野球を始めたのである。
私は当った箇所がエレアコの機械部分の真上だったので心配になり、ギターを練習する気が失せ、当った箇所をポリッシュと柔らかい布でやさしく拭い始めた。
そして親子はものの10分もしないうちに、帰る準備を始めた。彼らが自転車で私の目の前を通り過ぎるようとするとき、父親もしくはその子供のどちらかが私に何か言うかと彼らの顔を見つめ、じっと待っていたが彼等はなんのリアクションもなく通り過ぎた。私から10mぐらい離れてから、自転車を止めずに父親が振り返りざまに私に会釈をした。私は会釈を返さなかった。わが子の目の前で他人様に対して責任をとろうとしないみっともない親と接し、そのような親を眼前で見た体験は初めてだった。当然、虫唾が走った。
私は轢き逃げをされた人の気持ちが少し分かった気がした。そして、「すいません」のあとに「ギターの方はどんな具合でしょうか」と訊ねるのが、まっとうな大人であり子を目の前にした親というものだろ、と思った。子供の目の前で他人に謝罪している姿がみっともないのではない、何事もなかったようにその場を収めようとするのがみっともないのだ。
後先のことを考えても時として「事故」は起こるときがある。私の用心のなさについて反省すべき点があるとすれば、野球を始めた時点で父親に気をつけてくれるように声をかける、もしくは私みずからが別の場所に移動してギターを弾くことがあげられよう。しかし後者については行なう義理などない。
もし何か損傷があったら?と不安を覚えたので、私は世話になってる楽器店にギターを持ち込んでアンプにつなげさせてもらい、しっかり音がなるか確認してから帰路についた。
その途中、何が最も残念だったのか、考えが明確になった。私は、その父親の私への対応を目の前で見ていた子供のDNAに、今回の体験が刻み込まれたことを残念に思ったのだった。少年期の諸段階で人格形成に作用するできごとはいろいろあるだろうが、残念ながらあの父親の対応は少年の無意識に悪い影響がさらに上塗りされたように思う。言い過ぎだろ、と思う人がいるかもしれないが、そもそも少年のそれまでの記憶に、父親がこういういわば嫌な緊張を強いられる場面で、大人としての対応が出来ていた状態を見て覚えていたならば、少年の方は一言ぐらい私に声をかけていただろう。
せめて子供には、いつか今回の父親の姿が反面教師として捉えて欲しいものだ。ただ目上の人を反面教師として捉える思考は、だいぶ後でなってからでないと芽生えない。
私も人のことを言える完璧超人ではないし、決して偉そうなことは言えない人間であることは分かっている。が、他人のふり見て我がふり直せと、その少年に願ったし、また自戒を込めるつもりでも願った。しかし人は、他人のふりだろうが、他の思想であろうが、他の宗教であろうが、ある対象から学び自分の今後に生かし行動に移すことを絶望的なまでに怠りやすく、同じ失敗を繰り返してしまっていることに無自覚のまま生きつづける存在なのである。
などと憂いでいると、対向車がライトをアッパービームにしたまま、路地を走行するには速すぎるスピードでこちらに向かって走ってきた。ライトに目がクラッとなった私は、そこで自転車を止めてやり過ごすしかなかった。その後には歩行者用信号が青で私が右方を確認しながら横断歩道を渡ろうとしているのにも関わらず、一旦停止せずに左折してくる車の直前で急ブレーキをかけたりと、なにかと厄いことが続いた。思いやりや最低限のマナーの欠如している人間性に対する不信感話ばかりで、弊ブログをご覧いただいている方々には申し訳ないが、ネガティブなことばかりとはいえ、いろいろと実感として学べた日だったことは、ご理解いただけることと思う。
| Trackback ( 0 )
|