デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ギャルリ・ヴィヴィエンヌのジュソーム書店

年が明けてNHK BSで放送されていた世界ふれあい街歩きで「パリ!フランス!路地めぐりスペシャル」という回があった。(内容的には過去の「世界ふれあい街歩き」のフランスの回の中からいくつかピックアップしたものをまとめたものなのだと思う)
番組の録画をしていたので、一昨日、録画分を視てみると、番組のカメラが弊ブログでかつてこちらこちらで触れたジュソーム書店を訪ねているシーンがあった。それも書店が開店準備を始めるタイミングの映像だったので、私が体験した感じととても似ていた。少し目頭が熱くなってしまった。
書店で私は赤い装丁のジョルジュ・サンドの『棄子のフランソワ』をダメもとで探したあと、一枚1.3ユーロの絵葉書が9枚で10ユーロだったこともあり、9枚の絵葉書を購入して店を後にしたので、店主の言葉は「ボン・ジュール」「アン、…ヌフ」「ディス」「メルスィ」「ボン・ジュルネ」ぐらいしか覚えていないのだが、番組では店主が店の歴史と店内の様子を紹介し、ギャルリ・ヴィヴィエンヌの歴史とパサージュの性格についても落ち着いた口調で語っていた。
店の主人は4代目なのだそうだ。パサージュも含めあの店の雰囲気は変わってほしくないなと、このご時勢ゆえなおさら強く思う。

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テルミニ駅のすぐ傍に残るセルヴィウスの城壁

旅程からするとこの記事は「ピーニエ(松)へ(3) 」というタイトルになるのだが、朝に見たセルヴィウスの城壁跡は古代ローマ史のなかでは重要な遺跡と位置づけられるので、「セルヴィウスの城壁」とする。

ローマを歩き回る初日の朝に、観光はまずロムルスとレムスが流れ着いた伝説上の場所から始めたいと、現地で少しだけ思っていたが、宿を出たらすぐになるべく効率を重視しようと考えが変わった。それでも、初日の朝にセルヴィウスの城壁を見れたというのは始まりとしてはよかったように思う。
さて、セルヴィウスの城壁はテルミニ駅のすぐ傍にあるが、この城壁が築かれたのは古代ローマに共和制が敷かれる前の王政期であった。
紀元前6世紀、ローマは王政を敷いていたがローマ王第6代目がセルヴィウス・トゥリウスである。王セルヴィウスは先代の王タルクィニウスの事業であったローマの七つの丘を囲む、つまりはローマ全体を守る城壁を完成させた。
塩野七生著『ローマ人物語』には、城壁が延長(足し合わせた全体の長さ)8kmもあり、ハンニバルも攻略をあきらめるほど堅固なつくりになっていたことが書かれている。そしてローマが外敵からおびえることが無くなったユリウス・カエサルの時代に、カエサルがローマの都心部の拡張のためと、ローマに城壁の必要性がなくなったことを、つまりは平和であることを内外に示すためセルヴィウス城壁を破壊させたという記述も印象に残る。
セルヴィウス城壁はカエサルが破壊させたので、今は画像のテルミニ駅の傍のものと、アヴェンティーノの丘とカピトリーノの丘の上にしか残っていないのだという。

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宿の前(朝7:00過ぎ)



泊った宿はテルミニ駅の北側マルサラ通りに面していた



Sacro Cuore di Gesu

閉まっていた。もし朝のお祈りが行なわれていたら、入りたかった。


まだ街灯が点いている。



E.デ・ニコラ通りから駅のほうへ


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「出口」て、分かりやすっ(笑)

それだけ日本人旅行者も多いってことなのだろうなと思った。









ワット・プラケオの入口あたりの座れるブロック塀で一休みしてから検札の傍にある売店へ。ワット・アルンには置いていなかったバンコクの旅情を覚えさせるような絵葉書が多く売られていた。それも一枚5バーツ(笑)。ワット・アルンで「(10枚一組で)200バーツ」とか言っていたのを思い出し、思わず噴いてしまった。
数枚の絵葉書をワット・プラケオの売店で買い、切手も扱っていたので葉書の枚数分買っておいた。売店の主人が正規の値段をそのまま実直に伝えかつ親切に観光客に接していたので好感を持った。
売店の横のベンチで日本人女性の観光客がさっそく絵葉書を綴っていた。ワット・プラケオ拝観後の間もない印象をサラサラと文字にできるなんて、なんとうらやましいことかと正直思った。私は宿に帰ってからでないと、それも帰国直前でないとなかなか筆が進まないのである。
絵葉書と切手をカバンにしまい、出口のほうへ。ワット・プラケオに入るときに声を掛けられなかったので大して注意を払わなかったが、出口に向かいつつふと左を見るとワット・プラケオの拝観に際しての服装規定の表示があった。


「このような服装では入れません」

私は長ズボンと襟付きの半そでのカッターシャツを着ていたので問題なく通れたが、Tシャツや短パンといったようなラフな恰好の旅行者はここで無料で貸し出してくれる上着やズボンを着用することになる。


拝観に適さない服を着た人を呼び止める瞬間

暑さゆえ肌を露出した涼しげな服装で観光地をめぐりたくなるものだが、タイでは王室関係の建物(宮殿など)や寺院では服装チェックが厳しい。このあたりのことはガイドブックに載っている。やっぱり旅行の際は一着でも服装規定に引っかからない服を荷物に入れておいたほうがいい。

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テルミニ駅(地上階)

この記事は内容的にはこちらと同じになる。テルミニ駅傍の宿にチェックインする前のエレベータが↓である。


扉が開けっ放しのエレベータ

このエレベータに乗ろうとして内側からいろいろボタンを押したが、作動しなかったので荷物を担いで階段を4階まで上ったのであった。画像を撮っておいたのは、レセプションにエレベータがおかしい旨を伝えるためだったが、チェックイン後「内側の扉を閉めた状態でないとボタンは作動しない」ことを教えられたのだった。手続きが終わったあとに宿の主人が階段を下りていき、4階までエレベータに乗って上がってきた。念のためエレベータの使用方法を目の前で実践してもらった。


泊った部屋

エレベータとこの個室の画像で、どこの宿か分かる人がいるかもしれない(笑)。
トイレとシャワーは共同であった。それは分かっての宿泊だが、エレベータの次に今度はこの部屋の天井のライトが点かない事態に見舞われた。
さっそく「天井のライト、点きません」と苦情を言いに行った。イタリア語の会話集を指差して伝えたから完全に伝わったはずだが、宿主はスイッチをカチカチ動かしたあと早口にイタリア語でなにやら言った。なんとか「スクィーズイ(ごめんなさい)」というのは聞き取れ、英語で「明日には…」と言うのも分かったが、明日のいつ交換するのかよく分からないままレセプションに戻っていった。
滞在期間中、天井のライトは交換されず、洗面台の上のライトも二日後に切れた(笑)。ちなみに洗面台の上のライトも交換される事はなかった。

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列車は行ったばかりのようだ




fs(イタリア鉄道)でテルミニ駅へ向かう。チケットは↑のようなインフォメーションで買えたり、チケット自動販売機でも買うことができる。


列車が着たので左の車両に乗った…

ここに写っている車両に乗ったのだが、愚かしいことにどこ行き列車なのか未確認のままであった。駅の構内も人が少なかったし、夜なのでテルミニ駅行であっても利用客が少ないのかもと思っているうちに列車が発車した。
発車していくつか駅を通過し、旅行ガイド書の鉄道路線図を見開いて、ハッと思った。空港からのfsは、Termini行とOrte行があって、ひょっとすると私はOrte行に乗ってるのでは? 空港から出るfsはTermini行しかないと何の根拠から思い込んでいたのか?
私が座っている席から通路を挟んではす向かいに座り携帯電話を触っていた女性にガイドブックを見せ、下手なイタリア語で「この列車はテルミニ駅に行きますか?」と訊ねたら、「いえ。行きません」と返事が。
列車が減速し始めたので次の駅で引き返そうと荷物を担ぎ出すと、その女性は「いえ、引き返す必要はありません。オスティエンセで降りて、ピラミデで地下鉄に乗ればいいのです」と英語で教えてくれた。彼女は路線図のピラミデ駅を指差してくれ、「トランスファー、カンビアメント(イタリア語で乗り換え)」と丁寧に教えてくれる。そして、幸運なことに彼女もテルミニ駅の方面に用事があるのでテルミニ駅まで一緒に行きましょうとのことだった。
オスティエンセ駅で下車し、地下鉄B線のピラミデ駅は歩いて目の前というぐらいの距離だった。改札の手前にあるタバッキで乗車券の1回券を買えることも彼女が教えてくれた。英語で「とても簡単でしょ?」とにこやかに訊いてくれるので「はい、ありがとう」と返事し、プラットホームまで「Vengo dal Giappone.Sono qui in vacanza.(日本から来ました。休暇での旅です。)」などと一ヶ月程度にわか勉強したイタリア語を並べて話したが、少し難しい話になると「I'm going to visit the ruins(遺跡を訪ねるつもりです)」とすぐに分かりやすい英語になってしまうのであった。
地下鉄B線がホームに着き、車両の外装および車内のいたずら書きに、思わず「風変わりな列車ですね」と言ってしまったら、彼女は「このデザインはちょっと…」と苦笑した。


テルミニ駅に着いて。彼女はフィギュア・
スケートのカロリーナ・コストナー似だった

ピラミデからテルミニまでは駅でいえば4つ。しかし、あっと言う間に着いてしまう。
地下鉄を降り、地上階に行く間も周囲の客に流される形だったのであっと言う間であった。通路がいくつか分かれているところで、彼女は自分の目的の方向に行くとのことで、左手で私の右手を握りつつ私に「ブオン・ヴィアッジョ!(よい旅を!)」と声を掛けてくれた。聞き慣れぬイタリア語でもこの時はしっかりと聞き取れた。私は感激し「グラッツェ・ミッレ!…アッリヴェデルッチ!」と返事をした。ほかにもっといいお礼の言葉が出てこず、勉強してこなかった自分が歯がゆかった。彼女が別通路に曲がるまでの数秒ほど見送った。
到着したてだというのに確認もせず場当たりでfsに乗ったことは決して褒められたことではない。ただ、旅行初日の旅の不安がまだ抜けきらない状態の時に、現地の人に親切にされる体験はそう得られるものではない。幸先のいい旅の始まりであった。
宿はテルミニ駅のすぐ傍。宿への地図を出してその場所を警官に訊ねたらすぐに指差して教えてくれたが、宿の看板は夜には分かりづらい表示であった。

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あまりよく覚えていないが、預けていた荷物を取りに行くまでけっこう歩いた気がする。





荷物を受け取ってから市の中心へ行く列車の駅へ



一旦空港の外へ。まだ少し明るかった。

(この「ローマ到着」の記事は、ローマに泊った時に使用したホテルのことに触れた記事を書く際、当時のことを思い出すと、思いのほかいろいろな記憶が連鎖的に蘇ってきたので、旅程としては前後する形ではありますが到着日に印象に残ったことを書き残しておきたくなったので手がけています)

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フィウミチーノ空港

ローマに空路で到着するときに利用するのがフィウミチーノ空港(レオナルド・ダヴィンチ国際空港)である。天井からさがる案内表示で「入国審査」や「乗り継ぎ」、「荷物の受け取り」などは分かるのだが、同じ飛行機の乗客と目的は一緒なので人の流れに乗って行けば自ずとしなければならない手続きをおこなう部署にいけてしまう。


空港内のセクションをつなぐシャトル乗り場

多くの利用客が大きな荷物を持っている。


入国審査へのシャトル内からローマの夕日を眺む



入国審査

到着すると乗客は入国審査に殺到するものだが、この混雑ぶりは人気都市でありイタリアの中心であることを思わせる。審査自体はパスポートと帰りの空港チケットを見せたら、入国スタンプも捺されず何も言われず、首だけのアクションで「通りなさい」という感じで、あっけなく通過できたのであった。

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朝からアイスクリームも売っているカフェ

私は旅行先の宿にはあまり期待せず、安くかつ寝られればそれでよいと思っている方だが、ローマで泊った宿はいろんな意味でひどく印象に残るところだった。
まずエレベーターが旧式で手動の扉が少しでもきちんと閉まっていないと作動しない。私も含め宿泊者の多くがエレベーターの扱い方(注意点)など知る由もなく、重い荷物を持って4階までの階段を登る第一の試練を経験したことだろう。
私は幸いにも到着日にレセプションがいてくれて、すんなりチェックインできたが、翌日以降、一日に一度到着したての大きい荷物を持った旅行者に「レセプションがいないが、君、(レセプションが)どこにいるか知らないか?」と訊ねられたものだ。自分の用事があるとチェックイン予定の宿泊客など二の次にして、出入口の鍵をかけたまま長時間レセプションを留守にする宿の主人…大きい荷物を4階まで持って上がった宿泊客は宿の主人が来るまで待っていたことだろう。ネット上のユーザーレビューで星二つというのも、仕方ないわ…。
さて、上の二枚の画像だがこれは宿ではなく、宿に泊ったら付いてくる朝食を出してくれるカフェである。しかし渡された食券は一枚だけで、カフェで出されたのは少し大きめの甘すぎるカップケーキ1つ。それも手渡しされて、あとは知らんといわんばかりであった。ちなみに次の日から食券すら渡してくれなかった、というか朝からレセプションいない(笑)。
次の日からの朝食は別のカフェで摂り、残りの手渡されるはずの食券の分は会計時に負けてもらう交渉をしようと決めた。

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本を読んでいると「これはぜひ(部分的に)引用して、ものを考える題材にしたい」と思わせる箇所が少なからず存在するが、たとえ一時の熱情でそう思ってしまったとしても、ある程度時間が経てば、引用し論じないでよかったと思ってしまうことが時々ある。
『蒼穹の昴』でもそのようなことがあったし、昨年の『春の戴冠』もそうだった。この記事をお読みの方の中には、「それは小説じゃないか。もしそこから歴史的なことについて論じようと思ったなら思いとどまった君は正解」とすぐに諭してくれる人がいるかもしれない。
細かいことは端折るが、『春の戴冠』も『蒼穹の昴』も膨大な知識をもとに作家としての力量を存分に発揮してその筆力で持って読者をぐいぐい引き込むすばらしい作品だが、時間が経つほど、これは小説であって手品の種は作家の筆力および技術であることに思い至ってしまう。
とはいえ清朝末期について興味を覚えるきっかけを小説は与えてくれた。歴史のことを考えるのは引用に巻末にある主要参考文献を見てからでも遅くはあるまい。

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