読了後、正直、感想に困った。ただ、この作品については文庫の末にある解説よりももっと深い読み方があるのではという気がしたのでいくつかあたってみたら、亀井俊介編著『アメリカの旅の文学―ワンダーの世界を歩く』(昭和堂)所収の金澤智 氏の「『怒りの葡萄』論―ルート66の先にあるもの」が私が感じたこの作品のもつ力の説明になっているように思った。よって、この記事では、金澤氏の論を参考にしつつ、作品について触れることをお断りしておく。
作品を読み終えて、これまで読んだ旅文学のなかで最も悲惨な話であると感じた。『旧約聖書』を髣髴とさせるうんぬんは前半を読んでいてすぐにわかったが、それ以上ものが作品にはある。ずばり、理想の国アメリカの現実、アメリカに抱きがちな夢を打ち砕くことを、作品はフィクションを用いてその真実を描いている。私はアメリカ文学をそこまで読んでいるわけではないけれど、こんなに心を動揺させられたのはアメリカ文学ではこの作品が最初といっていい。
作品が暴き出す資本主義者を自認しても自由競争の名のもとに暴利をむさぼる構図は、古代ローマでユリアヌスが激昂(穀物の値段を吊り上げるために穀物を燃やして本国ローマに穀物を送らない行為やその他に対して)したことと大して変わらない。この種の問題は今もなお問題であり続けているし、また1960年代の既存の社会に反抗する「自由を求める若者が向かうカリフォルニア」という土地がかつて「約束の地」の幻影でしかない土地であったことは、少なくとも私にとってロシアに対する幻想をショーロホフの『静かなドン』で粉砕されたときに味わって以来の苦い歴史の事実である。
作品の主人公トム・ジョードとその家族は、旅に出て理想の国アメリカの過酷な現実を知る。そしてアメリカに足りないものに気づいていく。
「そうとすりゃ、何でもねえじゃねえか。つまり、おれは暗闇のどこにでもいるってことになるだもの。どこにでも――おっ母が見さえすりゃ、どこにでもいるだ。パンを食わせろと騒ぎを起せば、どこであろうと、その騒ぎのなかにいるだ。警官が、おれたちの仲間をなぐってりゃ、そこにもおれはいるだよ。ケーシーが知ったら、何ていうかわからねえだが、仲間が怒って大声を出しゃ、そこにもおれはいるだろうて――お腹のすいた子供たちが、食事の用意ができたというんで、声をあげて笑ってれば、そこにもおれはいるだ。それに、おれたちの仲間が、自分の手で育てたものを食べ、自分の手で建てた家に住むようになれば、そのときにも――うん、そこにも、おれはいるだろうよ。わかるかい? ちぇっ、おれの話し方、ケーシーに似てきやがっただ。あまりケーシーのことを考えすぎたからだね。ときどき、やつの姿が目に見えるような気がするだよ」
スタインベック『怒りの葡萄(下)』(新潮文庫)p364 大久保康雄 訳
作品を読んだ方およびウディー・ガスリーの「トム・ジョードの歌」を聴いたことのある方には馴染み深いこの箇所は、一家とともに旅に出たトムが旅をしてアメリカの現実を知り、弱い者を押しつぶそうとする現実に対して共感と連帯でもって対峙する使命を帯びた瞬間である。その使命を全うしようとするトム・ジョードは時代が変わってもアメリカ国内で何度でもよみがえる。
今もなおアメリカには幻想が漂う。格差や自国民がまともな生活環境におかれていないことに対する憤りは21世紀に入ってなお解決されていないし、間違っても理想的な充実した福祉社会を実現したとはいえない。1930年代、土地を手放さざるを得なかったジョード一家が旅に出て知る現実から得ることになった使命はその予言的性質を未だ保ち続けているのである。
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