デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



一歩一歩、水道橋のほうへ

公園内はちょうど唐傘松の手入れが終わったような感じで、細かい木クズや枝などが一ヶ所に集められていた。


クラウディア水道橋

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わらびは場所によって5月の連休を過ぎた今でも採ることができる。日本全国で言えばこれからは東北がわらびの旬になる。
昨年わらびの見分け方を教えていただいたこともあり、今年は採るのにそんなに苦労しないというか効率よく採ることができるようになったと思う。

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いつもの山で、鳥が木の頂でさえずっていた。透き通った声で細かく鳴く鳴き方だった。






私のコンパクトカメラでもなんとか写った鳥。鳥類に詳しい人は上の三枚だけでこの鳥の名前が分かるかもしれないが、私は図鑑で調べることとなった。


上の画像の拡大1



上の画像の拡大2

さえずっていた鳥はたぶん「ホオジロ」であろう。



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谷崎潤一郎『細雪(上・中・下)』(新潮文庫)読了。

周囲をよく観察すればそれこそ近くにいそうな人がたくさん出てきた作品、全編とおして飽きずに読めるおもしろい作品であった。スタインベックの『怒りの葡萄』ともども、今年読んだ小説の中でたぶん一番の作品になるだろう。
21世紀の今現在となっては作品に描かれている人間模様およびしがらみおよび格式・因習が滑稽なものに思えてならないということもあるだろう。しかし平成の世にあっても、結婚を意識し始める年齢になればどうしても蒔岡の家が講ずる手練手管を己も気持ちのどこかで駆使しようとし、相手の人柄よりもより高い社会的地位や収入と結婚しよう、させようとするのは、多くの人が本音の部分で否定できないであろう。なんだかんだで、日本ってこうだよなぁ、関西の上流家庭だなぁとニヤニヤしてしまった。(同時に、蒔岡の家の洗練された趣味や嗜好は昔の大衆にとって見れば、雲の上の生活に思えたろうとも感じた)
ただ、雪子の存在および彼女の周囲が抱く彼女への憐憫や複雑な感情は、1980年代以降や21世紀に入った育った人々にとってみれば、幾分奇異に映るように感じた。雪子を襲うようなスキャンダルなんて、いまでは価値が安くほぼ無いといっていいし、大衆のスキャンダルを忘れる速度は今の方が断然速いし、たとえ身内であっても「浮き名」が立ったところで、気にし続け恥じるどころかスキャンダルを報じた側が悪ければ弁解の機会はどうにでもなる。それに箱入り娘は自立心がないとして今ではある種の烙印を押されてしまうところがある。とはいえ雪子のような態度をとる人は案外多いのも現実ではある。
妙子の存在は『刺青(しせい)』の内容を思い出させた。男の死体は女が美しさを自ら際立たすための肥やしという谷崎文学の美学を象徴するような存在であろう。ただ、個人的にドストエフスキーの『白痴』やモームの『人間の絆』をどこか彷彿とさせるところがあって、妙子のキャラがとくに斬新で革新的だとは感じなかった。妙子は政情の関係もあって留学がダメになった(ダメにした?)が、妙子のようなキャラが外国で男を手玉にとって、それこそ外国の男の死体(肥やし)でさらに美しく輝いたりするような、または逆『舞姫』のような日本の文芸作品って存在するのだろうか、ちょっと気になった。

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ブルース界の巨匠B・B・キングさん、死去(シネマトゥデイ)

ベン・E・キングのあとにB・B・キングもこの世を去った。なんだか個人的趣味の領域で影響を与えた大物の訃報が続く。
訃報に接して彼の曲を何曲か聴きなおしてみたが、やっぱりかっこいいなぁと改めて思う。ご冥福をお祈りいたします。

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唐傘松の背は高く、朝の木蔭も地面を這うように
伸びていた。奥に見えるのも水道橋の遺跡である。


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水道橋に向かって歩くが日射しが強い


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谷崎潤一郎『細雪』(中)をもうすぐ読み終える。

ひさしぶりに、現代の価値観からではあるものの、作品のなかの登場人物や家の事情について同情もでき批判的なことを、ぶつくさつぶやいてしまいそうになる作品だなぁとしみじみ思ってしまう。時代が変わりつつあるのに何を呑気にうじうじしているのだ、ドストエフスキーの『白痴』やモームの『人間の絆』、プルーストの『失われた時を求めて』、太宰治の『斜陽』、そしてT・マンの『ブデンブローク家の人々』などに見られる救いの無さが、小気味よく感じらられる。それほどまでに巧く時代を映し出しているというか、かといって完全に古くなってしまったものではなく現代でも今なお廃ることの無い門地への執着や功利を余すところ無く書くのがうまい。
そういや、十数年前だったか周囲の神聖でいやらしい強情ぶりに翻弄させられ自立心と主体性のない雪子のことを、日本の現代文学で最も美しい登場人物として激賞している論調をなんどかネット上で目にしたが、雪子は意外と我が強く、こだわりやカマトトぶりが思う以上に目に付くのは私だけだろうか。大いなる語弊および誤読覚悟で書けば、表層の全く異なるドストエフスキーの『貧しき人びと』のワルワーラやT・マンの『ブデンブローク家の人々』のトーニへの、憐憫を介した愛着というのなら分かるんだが、美しいというのは、はて?と今にして思う。

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プラ・チャーンの屋台街からワット・ラカンに向かうためター・ティアンの船着場へ。歩いて船着場へ行ってもよかったが暑さが堪えてきたのでバスで移動。


バスにはお坊さん優先席が設けられているが、
私の見た限り入口傍の席が多かったように思う。


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マイヤ・プリセツカヤさん死去=20世紀最高のバレリーナ-ロシア(時事ドットコム)

ベン・E・キングの訃報から数日も経たずに偉大なバレリーナの訃報である。
この人の舞踏は映像でしか見たことはないが、旅行中のロシアでバレエを鑑賞したことがあるので、おのずとマイヤ・プリセツカヤの話題が出たものだ。
旅行前に彼女のロングインタビューを見ていて、その中で、彼女がスターリンに見下ろされる形で舞台に立っていたときの心境(その番組ではスターリンはいつも同じ席で舞台を見、その席は他の観客にスターリンが見えない位置であったという)や、夫妻ともどもKGBから執拗にマークされていたことから夫妻をつけまわす担当者の顔を覚えてしまったことなどが印象に残っている。とくに二つ目のエピソードはドストエフスキーもロシア帝国の秘密警察に生涯つきまとわれていたことを知っていたこともあって、やっていることは体制は変わろうが同じなんだなぁと思ったものである。あのロングインタビューの番組、再放送してほしいものだ。

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