谷崎潤一郎『細雪(上・中・下)』(新潮文庫)読了。
周囲をよく観察すればそれこそ近くにいそうな人がたくさん出てきた作品、全編とおして飽きずに読めるおもしろい作品であった。スタインベックの『怒りの葡萄』ともども、今年読んだ小説の中でたぶん一番の作品になるだろう。
21世紀の今現在となっては作品に描かれている人間模様およびしがらみおよび格式・因習が滑稽なものに思えてならないということもあるだろう。しかし平成の世にあっても、結婚を意識し始める年齢になればどうしても蒔岡の家が講ずる手練手管を己も気持ちのどこかで駆使しようとし、相手の人柄よりもより高い社会的地位や収入と結婚しよう、させようとするのは、多くの人が本音の部分で否定できないであろう。なんだかんだで、日本ってこうだよなぁ、関西の上流家庭だなぁとニヤニヤしてしまった。(同時に、蒔岡の家の洗練された趣味や嗜好は昔の大衆にとって見れば、雲の上の生活に思えたろうとも感じた)
ただ、雪子の存在および彼女の周囲が抱く彼女への憐憫や複雑な感情は、1980年代以降や21世紀に入った育った人々にとってみれば、幾分奇異に映るように感じた。雪子を襲うようなスキャンダルなんて、いまでは価値が安くほぼ無いといっていいし、大衆のスキャンダルを忘れる速度は今の方が断然速いし、たとえ身内であっても「浮き名」が立ったところで、気にし続け恥じるどころかスキャンダルを報じた側が悪ければ弁解の機会はどうにでもなる。それに箱入り娘は自立心がないとして今ではある種の烙印を押されてしまうところがある。とはいえ雪子のような態度をとる人は案外多いのも現実ではある。
妙子の存在は『刺青(しせい)』の内容を思い出させた。男の死体は女が美しさを自ら際立たすための肥やしという谷崎文学の美学を象徴するような存在であろう。ただ、個人的にドストエフスキーの『白痴』やモームの『人間の絆』をどこか彷彿とさせるところがあって、妙子のキャラがとくに斬新で革新的だとは感じなかった。妙子は政情の関係もあって留学がダメになった(ダメにした?)が、妙子のようなキャラが外国で男を手玉にとって、それこそ外国の男の死体(肥やし)でさらに美しく輝いたりするような、または逆『舞姫』のような日本の文芸作品って存在するのだろうか、ちょっと気になった。
| Trackback ( 0 )
|