異次頓殉教碑
新羅にも仏教受容の歴史があり、「三国遺事」には殉教記録があるという。
新羅が仏教を採用するのに重要な役割を果たした人物で異次頓(イチャドン(이차돈 (別名パク ヨムチョク、502 または 506-527) )という人がいる。
異次頓が殉教の際、首を切られたとき、血ではなくミルクが空中に噴出、3m以上の高さに達した。
異次頓の頭が小金剛山の砂の上に落ち、そこに花のシャワーが流れた。
この石碑は、憲徳王9年(809-826)の817年に、白如寺の境内に異次頓の殉教を記念して建てられたもので、 記念碑には、一方の面に彼の殉教のシーンの劇的な描写が含まれており、もう一方の面には漢字の碑文が刻まれている。
6世紀前半、異次頓という人が新羅の仏教普及に多大なる貢献をしたが、国が仏教を国教とする直前に殉教者となってしまったエピソードはこの旅行で初めて知った。それにしても随分若い年齢での殉教だが、奇跡が起こったようなエピソードはのちに聖人とされたような人によく見られるタイプの話のように思った。
この殉教碑は博物館敷地内の新羅美術館(主に仏教美術を展示する)にあってもおかしくなかったが、見れて良かった。
人面文圓瓦當(霊廟寺址・統一新羅)
騎馬人物形土器(加耶)
鴨形土器(原三国)
くちばしや目などの頭部は比較的リアルに作られていて、胴体の中空部分はシンプルだ。背中と尾に円筒形の開口部がある。
このタイプの土器は、(紀元前2世紀末から4世紀頃にかけての小国の連盟体勢力の時代の)三韓時代(原三国)の辰韓と弁韓の領土であった慶尚道全体で一般的にペアで見られ、日用品というより、埋葬品として使われていたようだ。 陶器は故人の精神(魂?)を来世に導くのを助けるために埋められたと信じられていた可能性があるという。
金銅馬鈴(統一新羅)
と青銅馬鈴(三国)
“乾統九年”銘 盤子(高麗)
博物館の鑑賞は本館(老古館)だけにした。ほかにも「美術館」「雁鴨池館」「特別展示館」があるのは分かっていたが、疲れもあってパスすることにした。