デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



2年も待たずして『カラマーゾフの兄弟』をまた読み終えた。江川訳で。

今回の読書では、読書が進むごとに某場所でつぶやきまくっている。その内容をある程度整理して、またここで書こうと思う。

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いつ誰がつくったものか分からないマニュアルに沿って行った葬式やのちの法要の意義について疑問をもっている私は、香典やお花代や御供(ごくう)とかいって何万円ものお金を渡されると正直困る。
どうして、そんなにお金を渡したがるのか、送りたがるのか、そんなに対面や世間体って大事なのか。お金を渡す人は大抵このように言う。
「以前の私どもの家の葬儀のときに、いただいてますから、受け取っていただかないと」
金は天下のまわりものというが、この場合、単に行き来してるだけじゃないか(笑)。ひどく愚かしい喜劇に見えるのは私だけか?
受取ってもらわねば困るという感情が働くのはわかる。しかし、あらかじめ香典は謝絶しているし、無理矢理渡された香典のお返しをするために、頭を捻るこっちの身にもなってくれ。それに49日が済んだあとに御供とかいってお金を郵送してもらってもなぁ。
もちろん葬式に来ていただいたり、遺族への哀悼の意を記したお見舞いの葉書・手紙を送ってくれることはうれしいしありがたい。
ただ、脅迫的な「慣例や礼儀やマナー」という「常識」に従って、形だけの香典やお返しを送り送られる行為に、亡くなった祖母への思いは、意外なほど付随していないと思うのだ。
つまり私は、香典とか御供とか送ったりする時間があったら、そのお金を使って祖母の気に入っていた番組のDVDを借りて見たり、観光ついでに祖母が好きだった場所に少し立ち寄ったり、祖母の好物だった料理の食材を買ってつくったり食べに行ったりなどして、そのことを手紙やビデオレターなんかで綴ったり、次にお会いしたときに話題に出すなりしてほしいのだ。供養ってそういったものじゃないのか。
また言われるだろうなぁ。若造のセンチメンタルな意固地かつ常識知らずって(笑)。

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トヨタ叩きほぼ収束?急加速「欠陥なし」の結論(読売新聞) - goo ニュース
「トヨタたたき」終息か=電子系統の疑惑解消で(時事通信) - goo ニュース

この件については昨年も触れた。それにしてもあの熱に浮かされた昨年のマス・コミのトヨタ叩き、本当に恐ろしかったし、トヨタであろうが村木氏の件であろうが、なんという恐ろしい報道のされかただろう。
アメリカ・日本問わず、「クレーム」から発生する賠償金で金儲けしようとした仕掛け人や、あの浮ついた雰囲気という尻馬に乗ってトヨタを叩いていた人は禊(みそぎ)どころではなく、トヨタへの謝罪広告を出す以上のことはするべきだろう。

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前回、『罪と罰』の訳を江川訳にした理由について少し書いた。しかしあれだけじゃ、自分の中で消化不良であることには変わりない。よって、亀山郁夫著『『罪と罰』ノート』(平凡社新書458)を私なりに読んでみた。
うーむ、本のあとがきにある、

本書は、一年半におよぶ作業プロセスのなかで生まれた発見を、これまでのドストエフスキー研究の成果に照らして記した覚書である。

という言の以上でも以下でもないなぁというのが率直な感想。(ちなみに作業というのは、亀山氏が『罪と罰』の翻訳に取り掛かっていたことを指す。)
本の中身はあくまで覚書なので、氏の思い切った仮説を氏自身で注意深く検証し、立論したものではない。よって、私個人は氏が引用している清水正氏の解釈(ソーニャに関するもの)を読んで、なるほどと思ったこと以外は保留した。

ところで、前回書いた「検証」のサイトの一つに、「亀山郁夫氏の『罪と罰』の解説は信頼できるか?」というサイトがあるのだが、私としてはいろんな意味で残念な現象だと思っている。はっきりいって専門家が在野の一般読者からこんなことを言われたら終りだと思うし、今回の『罪と罰』読書も誤訳問題や解題の問題が尾を引いているのが正直なところだ。
亀山氏は専門家であるし、ドストエフスキーが生きていた頃の時代考証とその裏づけも専門家でしか示しえないことを、読者にわかりやすく書いてくれていることは事実だ。だが、氏の「斬新な解釈」はいささか性急で、これまで誰も言ってなかった仮説をつねに考え付こうとする気負いみたいなものが私の中で感じられてきた。氏の言うことがある程度の批判に耐えうるしっかりとした論理に裏付けられたもので、加えて先人の研究成果をアンチョコにした焼き直しなどではないものなら大いに歓迎するのだが、今となっては古典復興に対する使命感ゆえか『悪霊』に出てくる「つくりなおし」を商業ベースに則って文学界でやろうとしているというか…。悪い人ではないんだろうけどなぁ…。
思えば、一昨年スタンダールの『赤と黒』の新訳版を放り出して、別の訳者ですんなり読めたことのあの違和感に身をゆだねるべきだったのかもしれない。
自分で恥をさらすようだが、私は以前このような記事を書いた。この記事以降の私の記事をご覧になれば、おそらくここで私がいわんとしていることが察せられると思う。つまり、私はいつかというか近いうちにまた別の訳で『カラマーゾフの兄弟』を読むだろうということだ。

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