読了したのは今月の頭なのだが、この作品と向かい合うのに少し時間がかかったほどショックを受け意気消沈し少しばかり鬱になりそうになった。
自分も人類の一員なのでこういうのも憚れるのだが、『チボー家の人々』に匹敵する、これほどまでに人類という種に嫌悪感を覚えさせ、人類の未来を悲観視せざるを得なく、絶望的な気分に陥らせる作品を読んだことがないように思う。その衝撃はトルストイの『戦争と平和』やショーロホフの『静かなドン』をはるかにしのぐ。両作品とも人間の愚かしさを描いている点で容赦はないものの、どこか昔の話の絵空事で対岸の火事のように捉えていたが、『チボー家の人々』は国家間のしがらみや戦争勃発までの過程や人間の貪婪なありさまの描写が現代でもそのまま当てはまるところがたくさんあるし、作品内の憂いや予言は21世紀の今日でも未だ解決を見ていないので、人類って救いようがないなと思わざるを得ないほどなのだ。
それと小説ってどんな登場人物にせよ、読者にとってわずかにでもヒロイズムを感じさせるような登場人物、たとえ悪人であっても何とかにも三分の理のような共感を覚えさせるものがあることが少なくないが、私の感覚では『チボー家の人々』にそのような人物がいないことも作品に対し悲壮感を感じた理由かもしれない。はっきりいって、作品の主人公のアントワーヌともう一人の主人公ジャックほどかっこ悪い主人公像に出会ったことが、これまでにあったろうかと思ったほどだ。彼らに対して正直とても不愉快な気持ちを覚えたのだが、しかしこの不愉快をもよおさせるものは、ずばり読者である私やおそらく一般の多くの人々の普段の生活にそのものに張り付いている生きる上で誰もが隠したがる不都合なものであったり、建前とは逆の世間体の悪いことに他ならない。彼等に共感できる部分は世間に誇れるようなことではものではないし、生きている間には決して口外できないような墓に入るまで持っていくような過去の汚名や恥ずべきことであり、立派な人間像を演じて体裁を気にし対面を重んじることの大好きな人間としては直視できない日常生活を送るうえで決して表ざたにできない衝動やムラ気の部分なのだ。もちろん、彼らをお話の国の人物として「自分とは違う人間なのだから、私ならこんなに後悔するような無様な生き方はしない」と言ってのける読者もいるだろうが、私には無理だ。
物語の前半でアントワーヌは医者として優れた手術の腕前を披露し、世間からの評判も得ていき、出征前の社会では理想的な成人男性としてのあるべき姿がまぶしく感じられるほどなのだが、大戦の影がちらつく時点での市民の一般的な楽観的な意識を代表している面もあり、それはのんき者の代表である。そしていよいよ戦争になりそうだなといった局面には契約だの国民としての義務だのと結果的に戦争に加担してしまう立場しか取れず、出征先で医者としての知識と危機管理の意識とが符合しないような「うっかりミス」が彼を叩きのめすことになってしまうこの顛末に、かっこ悪いと感じつつも「だったらあなたならどうするね?」と問われたとしたら、どんな風に答えたものか分かったものじゃない。
また第一次大戦前のインターナショナルと関係を持ち大戦勃発を止めようとするジャックや彼の仲間たちの運動の方向性の不一致さや運動家たちの思惑、またどこか明後日の方向にしか効力を発揮できない反戦運動の現実に読者が修正点を加えようにも、はたして皆が納得する形での万事解決できるような知恵を出したり最良の行動をとることは土台無理な話だろう。
混迷の時代には多くの人がアントワーヌやジャックであることに留まらざるを得ないし、彼らが突きつけられた自分の仕事と周囲との関係性は人類の重大な問題・反省点として未来に問い続けられていくものだ。だが、そういった戦争への過程に対する反省の態度は時が経つと最も軽んじられるものの一つである。残念ながら悪い意味でも歴史は繰り返すのだ。
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