デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



野嶋剛著『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)読了。

現在、故宮博物院は台北と北京に存在しているが、ふたつの故宮博物院がたどった歴史については、なんだかんだでよく知らないままであったので、非常に勉強になる本だった。
第二次大戦中のナチスからルーブル美術館の至宝を守るための「疎開」や、レンブラントの「夜警」の「疎開」のようなエピソードが台湾や中国の文物にもあったのは知ってはいたが、中国は清朝崩壊から中国の至宝が欧米や日本に流出してしまう時代から話が始まるので、より複雑な様相を呈していることがよく分かった。その複雑な様相を呈する原因として残念なことだが日本も関わっていることを思うと、台北で見た至宝の捉え方もやっぱり変わってくるように思った。
そして第二次大戦後の国共内戦後の中国と台湾の政権の「正統性」をめぐっての争いに故宮博物院の文物がいかなる意味を持っていたかを考えることは、中国の歴史を知るうえで大きなポイントになることも学べた。もちろん、台湾の地にあって故宮博物院が建っていること自体が台湾の原住民からすると違和感を覚えさせる意識の問題も見過ごすことはできない。故宮博物院をめぐる幾重にも絡まった問題は銃前銃後の対比だけで軽々しく口にできることではないのだ。そういう思いを一層強くした。

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王冠というかティアラというか。こういうのを
被り寺院で舞を奉納する様子がイメージできる。



タイ文字の形が今の形になったころのもの?






いろんな衣装や顔つきの人形があった。とくに中国人と思わしき人形が
印象に残る。タイと中国は昔から交流があったことを示すものかもしれない。




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読了したのは今月の頭なのだが、この作品と向かい合うのに少し時間がかかったほどショックを受け意気消沈し少しばかり鬱になりそうになった。
自分も人類の一員なのでこういうのも憚れるのだが、『チボー家の人々』に匹敵する、これほどまでに人類という種に嫌悪感を覚えさせ、人類の未来を悲観視せざるを得なく、絶望的な気分に陥らせる作品を読んだことがないように思う。その衝撃はトルストイの『戦争と平和』やショーロホフの『静かなドン』をはるかにしのぐ。両作品とも人間の愚かしさを描いている点で容赦はないものの、どこか昔の話の絵空事で対岸の火事のように捉えていたが、『チボー家の人々』は国家間のしがらみや戦争勃発までの過程や人間の貪婪なありさまの描写が現代でもそのまま当てはまるところがたくさんあるし、作品内の憂いや予言は21世紀の今日でも未だ解決を見ていないので、人類って救いようがないなと思わざるを得ないほどなのだ。
それと小説ってどんな登場人物にせよ、読者にとってわずかにでもヒロイズムを感じさせるような登場人物、たとえ悪人であっても何とかにも三分の理のような共感を覚えさせるものがあることが少なくないが、私の感覚では『チボー家の人々』にそのような人物がいないことも作品に対し悲壮感を感じた理由かもしれない。はっきりいって、作品の主人公のアントワーヌともう一人の主人公ジャックほどかっこ悪い主人公像に出会ったことが、これまでにあったろうかと思ったほどだ。彼らに対して正直とても不愉快な気持ちを覚えたのだが、しかしこの不愉快をもよおさせるものは、ずばり読者である私やおそらく一般の多くの人々の普段の生活にそのものに張り付いている生きる上で誰もが隠したがる不都合なものであったり、建前とは逆の世間体の悪いことに他ならない。彼等に共感できる部分は世間に誇れるようなことではものではないし、生きている間には決して口外できないような墓に入るまで持っていくような過去の汚名や恥ずべきことであり、立派な人間像を演じて体裁を気にし対面を重んじることの大好きな人間としては直視できない日常生活を送るうえで決して表ざたにできない衝動やムラ気の部分なのだ。もちろん、彼らをお話の国の人物として「自分とは違う人間なのだから、私ならこんなに後悔するような無様な生き方はしない」と言ってのける読者もいるだろうが、私には無理だ。
物語の前半でアントワーヌは医者として優れた手術の腕前を披露し、世間からの評判も得ていき、出征前の社会では理想的な成人男性としてのあるべき姿がまぶしく感じられるほどなのだが、大戦の影がちらつく時点での市民の一般的な楽観的な意識を代表している面もあり、それはのんき者の代表である。そしていよいよ戦争になりそうだなといった局面には契約だの国民としての義務だのと結果的に戦争に加担してしまう立場しか取れず、出征先で医者としての知識と危機管理の意識とが符合しないような「うっかりミス」が彼を叩きのめすことになってしまうこの顛末に、かっこ悪いと感じつつも「だったらあなたならどうするね?」と問われたとしたら、どんな風に答えたものか分かったものじゃない。
また第一次大戦前のインターナショナルと関係を持ち大戦勃発を止めようとするジャックや彼の仲間たちの運動の方向性の不一致さや運動家たちの思惑、またどこか明後日の方向にしか効力を発揮できない反戦運動の現実に読者が修正点を加えようにも、はたして皆が納得する形での万事解決できるような知恵を出したり最良の行動をとることは土台無理な話だろう。
混迷の時代には多くの人がアントワーヌやジャックであることに留まらざるを得ないし、彼らが突きつけられた自分の仕事と周囲との関係性は人類の重大な問題・反省点として未来に問い続けられていくものだ。だが、そういった戦争への過程に対する反省の態度は時が経つと最も軽んじられるものの一つである。残念ながら悪い意味でも歴史は繰り返すのだ。

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ブリューゲルの「バベルの塔」を原寸大の大きさに
するとしたならば東京タワーよりも高いことになる。

ブリューゲル「バベルの塔」展に行ってきた。
























非常に充実した展示内容だったが、非常に来場者も多い展だった。世間では子供たちが夏休みというのもあって更に来場者数が増えたのではないかと思った。
来場者数が多い故、ブリューゲルの「バベルの塔」だけは行列をつくるようになっていた。よって立ち止まって鑑賞することはできないものの、行列に並び直せばまたじっくりと見ることはできた(時間は浪費してしまうが)。
本当に緻密な絵だった。画家にとっては作品制作の依頼があって描いた作品かもしれないが、真剣に描いたものであることは間違いないと思った。
それにしても塔の建物だけでなく、建設の過程を描くというのは、並々ならぬものがある。レンガを焼く過程、16世紀の建築技術を細かく観察したうえでのレンガを塔の上層部に運ぶ過程、漆喰を上に運ぶ過程のみならず、すでに造り終えた地上階や1階に相当する下層部のレンガの色と上層部の建設中のレンガの色を異ならせていたり、窓枠のデザインを階層ごとに変えていたり(各々の時代の窓枠のデザインに)することで時間の経過まで表現されているとは...。
こういったことは外国でこの絵をじっくりと見れたとしても、美術館の中の多くの見るべき作品の一つとして埋もれてしまいかねない旅行中のある種の意識の散漫さのせいで、たとえガイドから説明があったとしても気づかないままであることが少なくないものだ。その点、今回の特別展は特定の作品の見逃したくない要素に気づかさせてくれるいい展だったように思う。
展には「バベルの塔」だけでなくブリューゲルの時代の版画や、ブリューゲルやその世代に影響を与えたヒエロニムス・ボスの作品も展示されていた。正直、どこか不安にさせる不気味さが残るものの、漫画も含めた現代のアートに非常に大きな影響を与えているんじゃないかと思えた。

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新PC  


先週、突然パソコンの動作が遅くなり、軽いファイルの移動に30分、1時間と時間がかかるようになってしまった。
バックアップはきちんととっていたので困るようなことはないにしろ、起動して三分も経たないうちに固まったしまうような状態になったPCを直そうにもお手上げ状態になってしまったことで憮然とした気持ちになったのは否定できない。
結論を書けば、私には原因を突き止められなかった。というかパソコンのトラブルについて勉強を続けていなかったので、原因を突き止める問題の切り分けについての感覚がさび付いてしまっていて、突き止めるのも以前よりは面倒くさく思うようになってしまった。そして初期化しようとしたのだが、電源は入りOSは起動はするものの起動してからウンともスンともいわなくなってしまった。
自分に対して釈然としない気持ちが残ったまま新PCを探してしまった。新PCの設定は面倒くさく、前のPCで問題なく使えていた周辺機器が、新PCでは使えないことが多かったりする。これまで使っていた周辺機器を新PCで使おうとするといろいろと面倒な手順を踏まねばならず、異常に時間がかかったりした。
新PCは快適だ。しかし今回の買い替えは自分の中で前のPCに対して不完全燃焼というか残念なものがあるように思う。

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雨が迫ってくる迫力を味わったのは久しぶりだ。

山にいるときに雷が鳴っていたら怖いので、雷雲が去るのを待った。
雷雲が去ってから日本人女性とオーストリア出身の男性が下りて来た。オーストリアの男性はここが五山の送り火の場所だと知らずに登ってきたのだという。送り火の場所であることを伝えると、8月16日の送り火の画像は見たことがあったことを思い出したようで感激していた。


晴れてきた。ワシーリェフの
「雨上がりの草原」のようだった。



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