人間は矛盾している存在だから、その人間がつくる政治的判断を決定するシステムやその過程も矛盾に満ちているとは論理の飛躍が過ぎているかもしれないが、カミュの『ペスト』を再読するとそういったことを考えてしまう。
世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりもむしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。しかし、彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち美徳あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いのない悪徳とは、自らすべてを知っていると信じ、そこで自ら人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならぬのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない。 カミュ『ペスト』
あらゆる検証に耐え議論をしつくされた結果、こうしようと決められた決定事項例を探すのは難しい。決定をする前の人間は自ら学ぼうとしないことが少なくない。決定に関わった人間たちは、悪気のない人々で、良心や正義の名において物事を改善したい思いはあれど、大抵の場合、己の無知や蒙昧さから楽観的に予想したり見込んだ後の状態・現実の結果に対して、「こんなはずじゃなかった」と思ってしまう。
あえていうが、カミュは、もし貧富の差が歴然としており、社会的権力や決定権が一部の人間に集中しているような社会でも、その一部の人間が緊急時には社会的権威と全財産を擲(なげう)って責任を取る社会なら、第三の立場としてそのような社会を受け容れたろうか。作品の言うペストであることを受け入れ、またそれに罹ることを拒否する勇気を自覚してなお「すべてはいいものだ」と人間でありつづけることに希望をもとうにも、その手がかりに「共感」を掲げ媒体にしようとしても、責任を取ることに億劫な保身の本能が横たわり続け、喉もと過ぎれば熱さを忘れてしまう性は未解決のままでありつづけるだろう。
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