デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



どういうわけか今年はスクリーンで映画を見たのは1回だけだった。今年日本で公開された映画には、話題性と内容の充実度がともに高いとされた作品もあったのだが…。
新しい作品にもいいものがあるのだろうが、今年に限っては既視感のもとを形成するような作品ばかりを見たように思う。(ネタ割れ注意)

『幌馬車』…西部劇に属すが、ガンアクションは二の次で、西部に自分たちの町を作り移り住もうとする教団、その信者・家族達と、彼らを道案内する二人のカーボーイの物語。これはある意味ロードムービーじゃないかなと思う。自らの信仰心に凝り固まっているような教団のリーダーと、主人公のカーボーイの心の溝が、少しだけ埋まるところがよかった。

『オクラホマ!』…ミュージカル映画。最後の手っ取り早いハッピーエンドは、まるで『トム・ジョーンズ』みたいだった(笑)。個人的には嫌われ役を演じたロッド・スタイガーの演技がよかったと思う。

『戦場に架ける橋』…テーマ音楽は有名だが、見たことの無い映画だった中の一つ。『ドクトル・ジバゴ』などを撮ったリーン監督らしい、いい作品だなぁと思った。捕虜たちの精神の荒廃を避けるための「方便」だったとはいえ、共に作業をすることで出来上がった「作品」が、一瞬にして水泡に帰すのは切なかった。

『フィッシャー・キング』…NYが舞台だが、見たことのある風景がたくさん出てきて、妙に嬉しかった。

『間諜最後の日』…ヒッチコックのスパイもの。ラストの無傷はありえんやろ(笑)。

『愛と哀しみの果て』…映像の美しさは評価する。以前に感想あり

『トパーズ』…ヒッチコックのスパイもの。時代背景を考えると見ていて緊張を覚えるし難しい内容だが、外交における裏事情をヒッチコックはかなり深く知っていたことをうかがわせるような気がする。

『ローズ』…昔見たとしたら、ひどく感動していただろうなぁ。ジャニス・ジョップリンを彷彿とさせないこともないが、ジャニス・ジョップリンの出身地とその生い立ちからくる性格形成や苦悩みたいなものを、もう少し主人公に投影させてもよかったように思う。

『バベットの晩餐会』…今年見た映画の中のベスト8の1つ。以前に感想あり

『泥棒成金』…正直、ヒッチコックのグレース・ケリー好みが分かる映画だという気がする。ただ単に彼女を出演させたいという恣意的な意図しか感じられなくもない…。

『或る夜の出来事』…以前に感想あり

『フレンチコネクション』…今じゃ描けないぐらいハードな捜査過程、アクション満載でそれだけで充分楽しめた。

『レニー・ブルース』…これも、今年見た映画の中のベスト8の1つ。以前に感想あり

『未知との遭遇』…今年見たSF映画のなかでは一番。ってSF映画、これしか見てない。以前に感想あり

『雨に唄えば』…本当に古きよき時代の映画だなと思う。以前に感想あり

『クレイマー、クレイマー』…今なら分かるなぁという映画。今年見た映画の中のベスト8の1つ。以前に感想あり

『真夜中のカーボーイ』…ダスティン・ホフマンの変身ぶりに、俳優って本当にすごいなぁと感じさせる映画だった。

『オール・アバウト・マイ・マザー』…二度目の鑑賞。以前に感想あり

『ザ・マジック・アワー』…今年見た映画の中のベスト8の1つ。ビリー・ワイルダーへのオマージュに満ちている。そして、吉本新喜劇を映画にしてやったぞといわんばかりなところがアンチテーゼっぽくてよかった。

『私は告白する』…犯罪を目撃した神父が、犯人の告解を黙秘することで、かえって警察や世間から追い詰められていくという異色サスペンス。今年はヒッチコック作品をいくつか見たが、彼の異色作ではあるものの、私はこの作品が一番好きだ。

『オデッサファイル』…はじまってしばらくすると、主人公の真の動機と結末がわかってしまった(笑)。

『レジェンド・オブ・フォール』…映像美だけは評価する。

『麻雀放浪記』…今年見た映画の中のベスト8の1つ。バクチにのめり込んでいる姿は決してかっこよくないが、戦後の裏社会を生き抜こうとする泥臭い生命力に潜む、失われない慈愛の感情や人情を描き出しているところがよかった。

『その男、ゾルバ』…ゾルバは主人公の災厄かと思った(笑)。でも、いるよなぁ。酒と女と人生を謳歌し、失敗も多い憎めない、普通の人がどこかであこがれているような人。ゾルバのような、という例えとか会話で使えそう。

『波止場』…マーロン・ブランドとロッド・スタイガーの即興の演技がいまなお語り草になるというのは分かる気がした。M・ブランドの繊細さもこの作品の大いなる魅力だろうと思う。

『最後の晩餐(大食い)』…今年見た映画の中のベスト8の1つ。マルコ・フェレーリ監督、マルチェロ・マストロヤンニ, ミシェル・ピコリ, フィリップ・ノワレ, ウーゴ・トニャッツィ, アンドレア・フェレオルというキャストを見ただけで大体映画の内容の想像がつくかも(笑)。
食慾と性欲を充たすにも、その究極までいってしまおうとする、子供っぽいおじさんたちが出てくるグロテスクな作品。食の快楽と食べすぎによる苦痛はまさに頽廃の具現じゃないか、と思う。

『夜の大捜査線』…今年見た映画の中のベスト8の1つ。現在の刑事ドラマからするとテーマや事件の設定がいささか古いが、公開された当時のことを考えると、リアリズムに満ちていたように思う。

『キング・オブ・コメディ』…今年見た映画の中のベスト8の1つ。ロバート・デニーロはやばい一途すぎる人間のキャラを演じるのが巧いが、それに改めて感心した作品。冗談では許されないことが、コメディにとって最も人を惹き付け楽しませる要素に満ちていることを描いるところが秀逸。ジェリー・ルイスは役柄とはいえ、ラストの場面をどう見ていたことだろう?と少し興味を覚える。

『サンセット大通り』…これって、ブラックユーモア?(笑)。だよなぁと思う。映画の内容もさることながら、出ている俳優の往年の作品や、経歴を知ると、こわいぐらい濃い作品だとわかるだろう。パラマウントが、自身をこの映画の舞台にしていいよ、とOKしたのは、英断だと思う。

『欲望という名の電車』…「オール・アバウト・マイ・マザー」で劇中劇として触れられていたこともあり、いつかは見たいなと思っていた。内容が内容なだけにああいう役柄になるんだろうが、ちょっとギャーギャーやかまし過ぎないか(笑)。

『傷だらけの青春』…原題と日本語版タイトルと乖離している作品だが、ボクシング映画としてはおもしろかった。

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流行に乗る形で村上春樹の『ノルウェイの森』を読んだ(以下、ネタ割れ注意)。記事はまとまってませんので書き散らした形で、とりあえずそのままにしときます。

感想は以前書いた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の感想と6割ぐらい重複するように思う。今生きて活躍している作家というのもあり、私が村上春樹作品について普段人と話す際は、辛口評価になってしまっているだろうと思うが、おもしろくない作家だとは思っていないので、そこはわかってくれたら嬉しい。

作品内で主人公のワタナベが手にしている小説に『グレート・ギャツビー』『魔の山』『車輪の下』などがある。物語内で事ある毎に、その場面や関係する人物像を喩えるような役割を担っているのがこれらの小説なんだろうと思うが、いかんせんタイトルだけで「あからさまな隠喩」として用いているのは、あまり好きでない。
最初のハンブルク空港に降り立つ場面や、メキシコのうんぬんがなかったら、『ライ麦』の主人公が説明的に独白しているような作品だと、全体を通して感じた。単にワタナベが述べる時代の風潮についての見解が、『ライ麦』の主人公のそれに似ているように思えただけも知れないが。
緑とワタナベのやりとりはおもしろかったし笑えた。まるでデビット・リンチの不条理映画の登場人物の会話みたいで、私は既視感を覚えた。ただ、個人的に先に『海辺のカフカ』を読んでたので、登場人物たちの会話はいかにも村上春樹作品らしいな、とえらそうに思いながら読んでしまったのは、自分に対して少し残念だ。
『海辺のカフカ』で大島という人物を出してるぐらいだから、『カフカ』より前に書かれた作品であるならレズビアンのテーマがあってもおかしくないな、と思っていた。レイコが出てきたときにレズビアンをめぐる描写もどこかであるかもと思ったら、案の定だった。
正直、緑の姉の存在も、緑の嘘かもしれないと思う。
強制退場させられた割には、突撃隊の存在の用い方が巧みだ。
信じ難いほどの献身的な性格の持ち主で、緑の理想とするキャラが二人(ワタナベ、レイコの夫)出てくるが、レイコの夫の方は、作品のなかではある意味「常識人の超人」として映ってしまう奇妙な感覚を覚える。彼は行動だけみれば永沢と対極にあるのかもしれないが、怪物的なまでの一途な精神と意志をもっている点では似ているように感じた(あくまで小説内で)。
『ノルウェイの森』は、なんだかんだいってBildungsroman(ビルドゥングスロマン)で、その点『魔の山』を意識したんじゃないかと思う。

『ノルウェイの森』を読んで、村上春樹作品の特徴や人気の秘密は、

・描かれるエピソードや会話が既視感(きしかん)に満ちていること。
・読者が期待するような会話の応答や物語の展開を、斜め上にさらりとかわして関心を惹き続けること。
・登場人物たちは個性的だが、スカした諦観を身にまとっていること。個性の芯みたいなものが欠落し、生命感に満ち溢れていないこと。
・偽善の告発や禁忌事項に容赦がないこと。それが苦労人や孤独者や社会的マイノリティの視点から語られること。
・作中内の事物、環境や小道具までもが、時代の雰囲気を反映していること。
・性行為の描写が多く、登場人物の口を通して性的行為に対する考え方がたくさん出てくること。
・基本プラトニックを期待しないこと。
・やたら人が死に、寂寥感と暗さがあること。

そして一番目とダブるが、村上春樹作品の偉大なところは、歴代有名作品や映画や歌のなかに登場するどこかで読んだり聞いたことのあるエピソードの統合させて、どんな言語に訳されても通じる平明さを意識した文体を用いて簡潔に書いているところだなと、『ノルウェイの森』を読んで改めて思った。

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YouTubeに「やさしさに包まれたなら」のギターソロを上げた。
1度上げたが、余計な音が混ざっているのが気になって、このブログでは採り上げなかった。
しかし、何度練習しても左指の使い方が甘い所為で、気になる音が混ざってしまう。今回あげた分は、まだ若干余計な音が減ったというぐらいのものだ。

それにしてもこの曲は本当に有名なのだなぁと練習していて思った。私もそうなのだが、映画「魔女の宅急便」のエンディングで用いられていることから、この曲を知ったという人も多いだろう。練習しているときに近くに自転車を寄せた三人の中学生ぐらいの子が、すぐにこの曲と映画のタイトルを口にしたのだ。嬉しかったのはその直後に私の演奏に乗せて歌詞を歌ってくれた時だった。そういう瞬間は何ものにもかえがたい格別なものがある。

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前回の記事を一部撤回する。その理由は簡単に言うと、私が間違っておりました、気づきませんでした、に尽きる。
前回の記事の後半で、私は

それに私が見逃したのかまだ確証はないのだが、第16巻で触れられているフィッツパトリック氏にウェスタン令妹が送った手紙って、いつこしらえられたのか分からなかったし、それを送ろうと決めた記述は第16巻以前のどこに出てきたのだろう? 送ろうとする動機を二人とソファイアの従姉との過去から推察することは、わずかではあるが可能かもしれぬと思いはするものの、もし手紙が無いとしたらストーリー的に破綻し致命的とはいわぬまでも、話のつじつまが合わないお粗末さを露呈していることになるのでは???
まぁ私も集中力を切らしていたので、また分かり次第、またはそれを教えてくれる人が現れたら、後日の記事で触れるかもしれない。
(2010-12-18 00:14:43)

と書いたが、この部分を撤回する。昨日、何気なく『トム・ジョウンズ(四)』(岩波文庫)を繰っていたら、以下に引用する箇所を見つけたのである。

第16巻の4
 「いや、おまえがそう思うのなら、心からおまえの健康の為に一杯乾そう。わしは時々少し怒りっぽいが、悪意なんか毛頭持っちゃいない。――ソフィー、おまえもおとなしくして叔母さんのお指図通りするんだぞ。」
 「いえこの人は大丈夫ですよ、」と令妹、「目の前に、私の忠告を無視して身を誤ったあのハリエットという馬鹿な従姉の例も見ていますからね。あぁそうそう、兄様、どうでしょう。兄様がロンドンに旅立たれて、まだ呼んだら聞こえそうな頃に、あのいやなアイルランド名前の図々しい男がやって来たのですよ――あのフィッツパトリックが。前ぶれもなしにいきなり私の所に飛込んで来たのです。そうでなきゃ逢やしませんけど。家内のことをなんだか長々とわっけもない事をしゃべって、無理矢理私に聞かせるのですよ。けど私は殆ど返事はせずに、家内からの手紙を渡して、自分で返事してやれって言ってやりました。きっとあの女も我々を探すでしょうが、私は絶対に逢いませんから兄様もお逢いになっちゃ駄目ですよ。」

フィールディングにも、翻訳者にもぬかりはなく、単に私が気づかなかっただけであった。ウェスタン令妹は手紙を送ったのではなく、渡したのだ。ここは私がほぼ気づかなかった。
ただ、『トム・ジョウンズ(四)』をずっと読み続けていて

第16巻の10
 フィッツパトリック氏はウェスタン令妹から前に述べた手紙を受取り、そのお蔭で妻の引籠った先を知って、早速バースに帰り、そこから翌日ロンドンに旅立った。

この箇所が、先に引用した令妹の言を指していると、すぐに気づける人ってどのくらいいるのだろうと正直思う。それに「ウェスタン令妹から前に述べた手紙を受取り」ってなんだ? これを見ると、あたかも送られてきたみたいではないか。ウェスタンの領地を訪ねた際、氏によるハリエットへの愚痴をさんざん聞かされて辟易としていた令妹から直接手渡されたハリエットの手紙をもとに、だったら分かるのだが、状況説明としては舌足らずというものじゃないかなぁ。
令妹の言は百歩譲ってもフィッツパトリック氏にハリエットのとこへ直接会いに行けと、暗に示したという風に読むのは困難だと思うし、文脈からすると手紙でハリエットに訊ねたらどう?と読めてしまう気がするのだ。それに、フィッツパトリックはアプトンの宿の出来事以降、第16巻まで出てきてないやろ?(笑)。再登場がいささか唐突すぎる。
それでも気づかなかった君が悪いよ、ハハッ、と言う人もいるかもしれないが、そう言われても思われても甘受する。しかし、人様から指摘される前に自分で気づけてよかった(笑)。

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本をまま頻繁に持ち歩いているものの、読了までに1年以上を要した作品が、とうとう?現れた。H・フィールディングの『トム・ジョウンズ』(朱牟田夏雄訳、岩波文庫全4巻)である(以下、『トム』と記す)。作品を読もうとしたときと、その後とでは積極性に波があったとはいえ、これほどまでに作品の内容に対して関心度が下がっていった文芸作品は初めてだ。
この作品の存在を知ったのは、『レ・ミゼラブル』を読んでた頃にたまたまネット上の掲示板で、「モームの世界十大小説には入ってないけど『レ・ミゼラブル』は傑作ですぜ」みたいなコメントがあったからだと記憶している。
クイズ番組でなら10人の回答者が順に世界十大小説にとりあげられている作品名を一つずつ挙げていって、10個目まできちんと答えられたら絵になるだろうし、また何らかの機会(そんな機会をつくろうにも無理があるが)で10作品をそらで言えることができたら、「賢い」だ「すごい」だと言われて悦に入る時間を得れるかもしれないが、実際作品を読む、読んだ経験があるとなると、なかなか難しいだろうと正直思う。「…『レ・ミゼラブル』は傑作ですぜ」と書きこんだ人は、その後『トム』を読んだのだろうか。
私が思うに、モームが『世界の十大小説』で採り上げているからといって、『トム』を読んだ・読もうとしたという人はさほど多くない気がする。なので、自分のことを褒めてやりたい、どうだすごいだろ?と言いたいのではない。言いたいのは『世界の十大小説』にあるのだからって、それらが世界屈指の文芸作品であるというわけではなく、読んでもおもしろく感じられるかは読者次第だということである。モームに気を遣って「おもしろかった」と心にもない感想を吐することはないということだ。

『トム』について私の思ったことは多々というほどありはしないが、それでも印象に残る作品であることは確かだ、良くも悪くも。(以下、ネタ割れ注意)
たぶん、作品が評価されているのは、小説というジャンルを歴代的に見ていった場合、『ドン・キホーテ』のあとに現れた作品のなかでは、とりわけ主人公の個性がきわだっているからだと言うことが可能なのだろう。『トム』の主人公トムは美男子で純粋で慈悲深く情熱家、だが情欲家でならず者で何事においても少し思慮が足らず、結果誤解を招いては不幸に突き落とされるのだが、こういった普通の人間で不幸を絵に書いたようなならず者を主人公にしている、つまり完全無欠でない主人公としてはドン・キホーテ以来であった、というところだ。トムに作者フィールディングの気持ちが乗り移っている場面がないとは言い切れないが、トムとフィールディングが生きていた頃に出ていた他の作家による小説の主人公たちとは、一線を画しているようである。その点、当時としては人間味があり斬新(一部の批評家からすれば低俗)だったようだ。
しかし、古今東西の作品が出揃っている時代に生きている読者からすると、「小説の歴史的にはそうなのね」としかいえない。作品の中身や手法となると、作者がいちいちしゃしゃり出てきて所見や警句を吐きたがるし、巻の第一節はエッセイにまるまる費やしていて、エッセイの中には同情なしに読めないものもあるものの、はっきり言って物語の筋からすれば邪魔だったりした。とどのつまり作品内容の語られ方が自分に合わんかっただけなのだが、もしこれから読もうとする人がいれば、同じ言語で語られているはずなのに、てんで意味が分からないマニアックな講演会に間違って紛れ込んだり、高尚な言葉で語られはするもののいつしか眠たくなってしまう祝辞を延々と聞かされるような試練が訪れるようなことを覚悟したほうがよい。

あと、読み進めるにつれ、『トム』は『ドン・キホーテ』の影響をどうしても受けてしまってるのだなぁと思った。ドン・キホーテは遍歴の旅に出るが、トムも不幸な生い立ちが付け加わっているだけで、旅の描き方はどこかしら似ているし、読者を退屈させないためかそろそろ緩慢だな、と思う頃に、誰々が宿に飛び込んできて騒ぎが持ち上がるとか言い合いがはじまるとか、店でケンカがおっぱじまったとか、それに主人公が巻き込まれるだとか、物語に関係のない小品となるような挿話がもられたりとか、そのパターンが繰り返し起きる点に辟易としてきたのは否めない。
また、とある夫人が策謀をめぐらせ、劇的な場面をもたらしてくれるはずのイベントをこしらえた割には、その効果は尻すぼみで、尻すぼみになった「原因」を後付で説明されても、読んでて気づかないぐらい説明が簡潔すぎる点が気になった。またその策謀を陰謀に利用するところもひどい話、「これはいつ権謀術数を計画したの?」ということがわからなくなってしまい、自分で『トム』のなかで起こる事件の状況設定を勝手につくりあげてしまいそうになったりした。それに私が見逃したのかまだ確証はないのだが、第16巻で触れられているフィッツパトリック氏にウェスタン令妹が送った手紙って、いつこしらえられたのか分からなかったし、それを送ろうと決めた記述は第16巻以前のどこに出てきたのだろう? 送ろうとする動機を二人とソファイアの従姉との過去から推察することは、わずかではあるが可能かもしれぬと思いはするものの、もし手紙が無いとしたらストーリー的に破綻し致命的とはいわぬまでも、話のつじつまが合わないお粗末さを露呈していることになるのでは???
まぁ私も集中力を切らしていたので、また分かり次第、またはそれを教えてくれる人が現れたら、後日の記事で触れるかもしれない。(この箇所については後記あり)
最後に、作品で最も印象に残った点がある。これは人間同士のコミュニケーション能力の乏しさによる悲劇がこの『トム』の根底にあることだ。他人を介することなく、主人公(もしくはヒロイン)が自分で相手に(相手を)確かめに行けと言いたくなる様な、読者がムズムズするような場面が多い。昔も今も同じことで人間は苦悩しているんだなぁと改めて思った。

それにしても、なんという冗長な文になってしまったことか(笑)。

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偉大なる未完成と評される文芸作品や音楽作品は多々あれど、『悪霊』もその一つだろうというのが読後すぐの感想。
それにしても、ドストエフスキー作品は毎度感想をまとめるのに困る。なので、今回も思ったことをただあげつらう。ネタ割れ注意です。

『悪霊』の読了は二度目である。作品を読んで否応なく残ってしまうのが、執拗なまでの我意を超越せんとする登場人物の思想(考え方)である。前回でも少し触れたが、環境や病気の所為にしない精神状態にあって、獣的な行為と人類を救うために命を惜しまない偉業との間には美の差異はなく、快としても同じだと言えるという責任能力へのこだわりは、作家のどういった動機から端を発しているのか?と考えてしまう。

作家にはてんかんの持病があった。また若かりし頃にはとんでもなく放蕩・浪費癖があったし、賭博熱となるとそれを止めるある時期まで、四六時中その熱が治まることがなかった。
恋愛嗜好となるとかなりのドMで、性欲となるとおそらく青年期以降は生涯を通して衰えることがなかったのではないかというくらい、旺盛であった。(異常性欲と言ってもいいかもしれない)。愛情や美を感じる対象としては、かなりの少女趣味・美男子への好みが強かった。
また作家の精神状態について付け足すと、感激癖と鬱とのギャップが極端だった。他人にはたとえ親密な間柄であっても手放しで友への愛情を過度に示す日と、冷酷なまでに友に気づかず無関心にふるまう日があることに、なんら違和感を覚えていなかった。
作家の性格や人柄については他にもたくさん指摘できる点はあるのだろうが、忘れてはならないのは、作家は若い頃フーリエの空想的社会主義を奉ずるサークルに出入りし、そこで官憲から逮捕され、あげく死刑を宣告されたものの、その執行直前に皇帝からの恩赦が下るというむごい体験をしていることである。生涯の持病てんかんはその擬似死刑を折りに悪化したとされる。他にも、最初の妻が『白痴』を書く4年前に亡くなり、同じ年に兄も他界していること、『白痴』を書いた年には長女のソフィヤを生後三ヶ月で亡くしていること、などが『悪霊』を書く前に起こっていたりする。(作家の性格や嗜好、持病、そしてかつて関わった政治結社のことを足早に書いたが、興味を覚えた方は、詳しい伝記や研究書がたくさんあるので個々人で調べてほしい。)

『悪霊』を再読して思ったのは、上に触れたような自分自身に対して、作家が登場人物たちに我意の超越性を付与することで、おのれの精神を正気に保つ努力を作家がしていたのかもしれないということ。もっといえば彼にとって作家という職業は、闘病生活を送る上での、一つの大きな武器であり城だったのではないだろうか。
また『白痴』を描こうとした頃から、上に書いたような自分の性格や嗜好を見つめなおすだけでなく、無神論に対するより深い考察や、過去に抱いていた政治的な思想をより丁寧に清算・再検討しようと思い始めたのではないかなぁ。
もちろん、闘病生活の薬とするためだけに作家を続けていたわけではあるまい。しかし、亀山郁夫氏の本に、ドストエフスキーの作品の創作過程ではアンナ夫人による口述筆記が作品にかなり大きな影響を及ぼしているのでは、といったような指摘があるが、口述する側に重要になってくるのが自身の超越性の保持ではないかと思うのである。つまりは、超越性を保持しながら口述筆記をしてもらっているということは、アンナ夫人に寡黙なカウンセラーをやってもらっていることになりはしないか。その上でもともとの「至高の存在」への関心とあいまって、己の過去のことを題材にした作品を書こうとすると、我意を超越しなければならず、そうでないと書けなかった作品が『悪霊』だったのかもしれない。逆にいえば、そうでもしないと日常生活・闘病生活だけでなく作家を生業として創作することができなかった、そうでないとやっていけなかったのでは?と思うのである。

『悪霊』の構想の元ネタになった事件や、その事件を起こした学生のモデルであるピョートル一味の特徴の現代性、彼ら「革新」とそれに対する「保守」が抱える根本的矛盾についてもいろいろ考えたことがあるが、まとまりきらないのでまた別の機会に。


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ネタ割れ注意です。

先日、図書館で亀山郁夫訳のドストエフスキー作『悪霊 1』(光文社古典新訳文庫)を見かけたので、手にとってみた。
現在は第一巻(本編のうち第一部を収録)まで出ている。亀山訳は先人の江川訳とは異なり、作中に登場するヴェルホヴェンスキーが使うフランス語をそのままアルファベットとその訳を日本語で書いてくれているので読みやすいのがいい。
久しぶりに読むとドストエフスキーの後期作品は本当におもしろいし、毎度のことだがドストエフスキー作品に見られる多声性には驚くばかりだ。どぎついカリカチュアとして読める小悪党ピョートルの言をとってさえ、どこが穿つものがあるのには舌を巻く。
作品は第一部を読み終えるとこらえきれなくなって、第二部は江川訳で読んでいるのだが、前回10年ぐらい前の、俗物根性を満足させてくれる「古典作品」でドストエフスキーという名を盲目的にありがたがって読んで筋すら誤読していた初読とは違って、とにかく新鮮な気持ちで文芸作品として読み進めることができて、とても楽しい。また作品内で言及されている触れられているさまざまな思想は、作品を彩る素材にしか過ぎないという視点で読むと、この作家の計り知れない力量を改めて感じる。
初読のときに惹かれた場面に、スタヴローギンとシャートフの「師弟」問答の場面があるのだが、今回もやっぱり同じ場面をおもしろく感じた。個人的にやられたと思ったのは、

「もし信仰をもっていたらですって?」相手の頼みにはいささかの注意も払わないで、シャートフは叫んだ。「でも、あのときぼくにこう言ったのはあなただったじゃありませんか、たとえ真理はキリストの外にあると数学的に証明するものがあっても、あなたは真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあるほうを選ぶだろうって。あなたはこう言いましたね? 言ったでしょう?」
江川卓訳(『悪霊(上巻)』新潮文庫、改版p476~477)


これがスタヴローギンが言ったとされるところが憎い(笑)。↑の場面からして、作者のことがわからなくなるのは、おそらく私だけではないだろうが、

「あなたがこう言ったとかいうのはほんとうですか、何か好色な、獣的な行為と、たとえば人類のために生命を犠牲にするような偉業との間に、美の差異を認められないと断言したというのは? あなたがこの両極のなかに美の一致、快楽の同一性を見いだしたというのはほんとうですか?」
江川卓訳(『悪霊(上巻)』新潮文庫、改版p485~486)


この辺がキーなんだろうなぁと思う。なにがキーかと言えば、作家が創作者たらんとするための資質・原点のことである。
「キリストとともにあるほうを選ぶ」というのは、たしかドストエフスキーが友人に宛てた手紙の中でかつて綴った「信仰告白」と読み取れる文ではなかったかと記憶しているが、それが小説となると途端に俯瞰したというか一歩引いた視点からの、いち登場人物による声として用いられてるに過ぎなくなる、とも読めてしまうような気がするのである。作家は自分がつむぎ出した言葉に対してさえ、時にいじわるな視点を忘れない。それが、「両極のなかに美の一致」としてまでも見る能力なのではないだろうか。ちょっと意味がとおらん支離滅裂すぎるかな(笑)。(ちなみに同じようなことは、以前、作家がずっと抱えていた持病を「利用する」場面についての感想として、こちらのなかで、書いたことがある。)

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