デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




彼岸花の花が朽ちている状態を改めて見てみたのは初めてだ。


時間差で別の花が…


コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )




『赤と黒』は別の翻訳者の分で読み始めると、面白く感じ始めた。日本語の妙なのかもしれないが、「現代の読者向け」というスタンスでなされた平明な訳は、かえって物語を面白く読めなくなるのでは?と、ふと思ってしまった。(尤も別の訳者の分でも作品を読み切れるかどうかは、分からないが(笑))。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ミラーノのベルジョイオーゾ広場にあったマンゾーニの家
(現在も市内の Via Morone 1 にある)

カポーティの『冷血』を読んだ後しばらくして、スタンダールの『赤と黒』を読み始めたのだが、最初こそ飛ぶように読めたものの、8章あたりでなぜか読む気が失せてしまった。
そんなときに図書館でふと目に飛び込んできたのが1785年生まれのイタリアの作家アレッサンドロ・マンゾーニの『いいなづけ』(1827年発表)という作品だった。書棚の前にたたずみながら、このブログを開設する前につくっていた小説の感想を書くHP(今はない)をやっていた頃の掲示板にて、人様が『いいなづけ』は小説の王道であるみたいなことを書いておられたことを思い出した。それが今回の読書のきっかけである。
ところで、マンゾーニって誰だ?というのが、多くの方にとって正直なところだと思う。それにイタリアの作家といえばダンテだろうと言う方もおられるだろうが、A・マンゾーニは後にも先にもこの『いいなづけ』という作品でもって、イタリアの国民作家としての地位を築いた人である。
ではなぜにマンゾーニがイタリアの国民作家なのかといえば、その理由は『いいなづけ』を通せばなんとなく分かる気がした。
作品で取り扱っている時代は1620年代末から1630年代頭の北イタリアで、当時のイタリアはスペインの支配下にあった。物語は田舎で幅をきかす闘士(地方の政治家に影響力を及ぼす、マフィアややくざの類)のロドリーゴが、結婚する直前の若い村娘ルチーアを、我が物に出来るかできないかという気まぐれな賭けをしたことがきっかけで始まる。賭けは熱を帯び、ロドリーゴの子分たちがルチーアの挙式を取り仕切る予定のアンボッディオ司祭を脅し、怯えきった司祭はいろいろと屁理屈や無理やり捻り出したような難癖をつけて、挙式を執り行わないようにする。ルチーアのいいなづけであるレンツォは、司祭が式を執り行わない理由を知り、黙っちゃおられないと行動を起こす。しかし運命はルチーアとレンツォに対し…という感じだ。
この作品は勧善懲悪の内容が講談調といっていいような文体で書かれているのだが、内容的にもこれほど小説らしい小説はない、これほど物語らしい物語はない、これほど詳細なイタリアの歴史らしい歴史はない、ともいえるぐらいの作品である。こんなことを書くと没個性な中性的な作品なのかと思われるかもしれないが、決してそうではない。また作者本人が特定の登場人物に肩入れしていないゆえ、毒とも薬ともなるような作品の旨味成分がないかといえば、人物の性格や心理の動きや行動がどのような因果を及ぼすのか、読者にすべて分かるように書いてあるのに驚くことだろう。登場人物たちは己の利害でもって考え行動しているし、毎度おなじみの表現だが、登場人物たちのほとんどが「そこら辺にいそう」な人たちばかりなのである。
勧善懲悪の最たる場面で登場するフェデリーゴ枢機卿やレンツォを諌めるクリストフォーロ神父の言葉を持ってしても、主な登場人物たちの精神的な成長はほんの少ししか促進されない。それも都市全体が悲惨な状態に陥っているミラーノにおいて、ようやく起こった精神の成長とさえいえるほど、登場人物の性格変化は緩慢なのだ。それこそ人間の本質を穿ったリアリスティックな描写といえるのではないか。
作品は歴史小説でもある。マントヴァ領継承戦役や、ミラーノで起こったパン屋への暴動、ペストが猛威を振るった都市の様子が克明に描かれている。もし『いいなづけ』を読もうと思っておられる方がいたら、作者の歴史への考察を飛ばさないで読んで欲しいと思う。古今東西、人間は昔から大して進歩していないことを痛感させる小説やレポは少なくないが、『いいなづけ』はそのなかでも秀逸な作品の一つだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




彼岸花

刈られる前の少し青さが残る稲があるときよりは、稲が刈られた田を背景に生える彼岸花の方が好きだ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





うれしいことに、いつの間にか4回目となった「画家の御仁」の記事である。(以前のこちらの記事など)
今回は土曜日に展を見に行ったのだが、時間帯がうまく合ったからか、イタリアの歴史や絵画について、釆野さんやその生徒さんの数学の先生とゆっくり語れた。みなさん、イタリアの美術品修復の職人が多く住むの町に滞在したことがあったり、絵画鑑賞の目的で美術館めぐりをされたことのあるとのことで、非常に勉強になったし、現地で見聞きされたカルチャーショックについては心の底から楽しませていただいた。みなさん、本当にありがとうございました。これからの更なるご活躍を祈っております。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





「デイジー・ベル」(字幕付き)

「デイジー・ベル」という曲を最近まで知らなかったが、友人のおかげで英語圏では大衆歌といってもいいようなこの曲を知ることができた。なお、19世紀の末に作られたこの曲には興味深い歴史があることがわかり、ちょっと充実した気分である。
とはいえ、今回弾いた私のギターでは、ネイティブの人が聞いても、かなり珍妙に聴こえて、ひょっとすると何を弾いているのか分からないかもしれない(笑)。なにせ今回は譜面を読まず(読めず)、自分の耳で適当にコードを探し、またアレンジしたものだ。というかアレンジになってしまったという方が近いかもしれない。
よって、かろうじて分かる?ように歌詞を付けてみた。演奏自体は F のベース音がしっかり抑えられていないので、それはそれで今後の課題である。

YouTubeのページ

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




五番街にて(2)

前回の横断歩道の逆方向。逆光だったが、泊まったユースホステルの売店に同じような感じの絵葉書があったのには驚いた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




五番街にて

ロックフェラー・センターの東側にある南北の通りが 5th Ave.こと五番街である。ここは一流ブランド店やデパートが並ぶ通りであるが、ニューヨーカーの信仰の拠り所でありまた観光名所でもあるセント・パトリック教会がある。


セント・パトリック教会についてはまた改めて触れたい。



横断歩道を渡りながら(1)



横断歩道を渡りながら(2)

「ニューヨークらしい」写真を撮ろうと、しばらく同じ横断歩道を何度も渡った(笑)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





「落葉のメロディ」

秋らしい曲を弾いてみた。
オリジナルタイトルは「Hasta Manana」。アスタ・マニャーナは"じゃあまたね"という意味だが、曲は夏とともに恋が終っても恋人に対して未練を覚えるという内容である。
私が知る限りではこの曲はABBAが歌っていて、またパット・ブーンの娘デビー・ブーンも歌っている。私が持っているのはデビー・ブーンの分である。
ギターは夜に出かけて行って弾いたのだが、さすがに少し肌寒かったし、前の「風のとおり道」とは違って秋の虫の鳴声が入っていたりする。しかし弾いているときには風情がある鳴声も、録音されると騒音になってしまうのは仕方がないのか?(笑)。

YouTubeのページ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




トマ・クチュール「頽廃期のローマ人」(1847年サロン出品)

この絵について書きたいと強烈に思った時期があったが、今となっては「どうしたものか?」と思っている。もちろん、クチュールの作品が悪いのではないし、当時のサロンで名声を確立したこの作品のすばらしさを言い表すためには、私などがどれだけ言葉を足そうにも足りないだろう。ルネサンスのヴェロネーゼやロココ時代のティエポロの構図や色彩をふんだんに取り入れられたこの作品を、現地で見上げた頃は、それこそなんと言うデカダン、末期・終末とはまさにこういうものだ、と一人目を見開いて頽廃とはおよそ反対の感情に包まれて、この絵を驚嘆でもって見ていた。

ただ、今となっては疑問がふつふつと湧いてくる。というのはこの作品が古代ローマの詩人ユウェナリスの風刺詩に想を得ているからなのだ。ユウェナリスが活躍した時代はあのアウグストゥスがカエサルの構想を実施に移した時代で、クチュールの絵のような頽廃・不健全な様子・風紀が乱れた光景があちこちで見られたとは、考えられない時代なのである。ちなみに、アウグストゥスの次のティベリウス帝となると、剣闘士の試合すら皇帝がスポンサーになるのをやめたぐらいなのだ。それに大体風刺詩というのは平和な時期に作られるものなのである。
ようするにダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が紀元30年あたりのユダヤ人の食卓を正確に描いていないのと同様、この作品も歴史画としては史実に迫っているとはいえないのである。





大きい作品で迫力は段違いだった。

トマ・クチュール(1815-1879)はダヴィッドの高弟グロとアトリエを継いだドラロッシュの下でアカデミックな教育を受けたが、ローマ賞には失敗する。そこでローマ賞よりはサロンでの成功から社会的に認められる道に進む。
彼の作品は新古典派の作風と必ずしもいえず、どちらかというと反アカデミーな画風である。かといってロマン主義に傾倒しているかといえばそうではない、いわゆる折衷主義なのだが、この作品が圧倒的に成功したときは新古典派とロマン主義の融合から生まれる歴史画再興の旗手と目された。
「頽廃期のローマ人」の成功以後、彼は大きな作品の注文を受けるが、さまざまな理由からほとんどが未完に終わり、時代も彼との折り合いが悪くなった。その後、彼は厭世的な気分に陥り、故郷サンリスに引きこもる。
彼のことを肖像画家へ転身しなかったり、前衛画家として一歩踏み出せなかった悲劇の画家として片付けられることがある。しかし、彼のような存在、彼が生み出した作品がないと次なる世代が出てこなかったのも確かなのだ。実際、彼の弟子であったマネの作品が、そのことをしっかりと語ってくれているではないか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ