デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



今年なんとか読了できた本、見た映画。

『罪と罰』(ドストエフスキー)
『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)
『ファウストゥス博士』(トーマス・マン)
『ペスト』(カミュ)
『夜の果ての旅』(セリーヌ)
『人間ブッダ』(田上太秀)
『兄弟(BROTHERS)』(余華)
『歴史とは何か』(E.H.カー)

「ワンダとダイヤと優しい奴ら」
「生きる」
「ハムレット」(ソ連版)
「バージニア・ウルフなんか怖くない」
「めし」
「シャレード」
「A2」
「真昼の決闘」
「ヒトラーの偽札」

今年はいろいろあって本をあまり読めなかった。読んだり見たりしたのは密度の濃い作品たちだとは思うが、量が少ないなぁ。来年はもうちょっとたくさんの初読作品にチャレンジしたい。

更新の回数は数年前から比べるとかなり減ってはいますが、来年もぼちぼち更新していこうと思いますので、なにとぞよろしくお願いいたします。よいお年をお迎えください。


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 敷設された当時から、アッピア街道は、ローマ時代の公共建造物に一貫した方針、というより哲学であった、堅固、機能性、美観のすべてをそなえていたと言われている。立案者で工事の最高責任者でもあったアッピウスは、街道の平坦度を確かめるために、サンダルを脱いで素足で歩いてみたという。また、幹線中の幹線であっただけに、修理修復には手を抜かなかった。ローマ人はそのために専門の官職を設置して、その人に全権を与えている。動脈であるのだから、血液の通りに支障がないよう努めるのは当然であった。現在見られるような、すり減った丸石の間に風が運んできた土がたまった状態の道では、馬を駆っての一日の踏破距離距離七十キロは絶対に消化できない。あれでは馬が転倒するであろうし、転倒しないとしてもさしたる距離は踏破できないはずで、街道の脇に広がる平原を疾駆したほうが、よほど早くしかも安全に目的に地に着けたにちがいないのである。ローマ時代のエンジニアたちは、百年間は修理の必要の無い道をつくったと豪語したが、敷設当初の状態を維持したければ、不断のメンテナンスは絶対に必要だった。六世紀になってアッピア街道を通ったビザンチン帝国の一高官は、敷設してから八百年が過ぎていながら完璧な状態を保っているのに驚嘆している。
塩野七生『すべての道はローマに通ず(ローマ人の物語Ⅹ)』(新潮社)p41~42




私が持って行ったガイドブックには、往時のアッピア街道を描いた絵(想像図?)が載っていたのだが、それと今に残っている街道の様子とは全く違うと言っていい。
しかし、一応、昔の路面だけじゃなく、排水溝の跡を探してはみた。


昔も同じような風景だったのだろうか

街道の脇は本当に広々としていた。








街道脇に糸杉と唐傘松が立つ

唐傘松などは帝国崩壊後に植えられたそうである。
ローマの中心から離れ、南東へ南東へと進むと、だんだん人通りが少なくなっていった。


墓所だろうか。



碑文

この石を見たとき、街道を行く者の一休みの場として、ぜひとも座ってみたくなった。そこでなぜだか、プルーストの『失われた時を求めて』の「ゲルマントの方へ」に出てくる、主人公がサン=ルーが滞在しているところの小さな特別階段について触れている箇所を思い出した。

はじめてこの階段に足をのせたとき、私は、長く使われた品物だけに特有の、あの努力を省かせてくれる何かを感じた。私がまだ知らないうちからこの階段は、親しみを覚えさせるものになっていたのであり、たぶん昔の主人たちを毎日迎えていたために、そこにしみつき一体化していたのだろうが、まるで習慣の持つ心地よさをあらかじめ備えているかのようであった。
M・プルースト『失われた時を求めて(第5巻)』鈴木道彦訳(集英社)p138

時間の限られた早足の旅行とはいえ、ここはちょっと幸せな気持ちに浸らせてもらったように思う。ただ、昔のローマ人からしたら、「座る場所のために建てたんじゃないたんだよ!」というのが本音かもしれない。


「英雄のレリーフ」

「英雄のレリーフ」の名で呼ばれる遺跡のところまできた。事前に調べたところ、共和政時代につくられた男性の像とのことだが、レプリカとのことである。





墓所が見えてきた



「Marcus Serviliusの墓」

つづく

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チェチリア・メテッラ通りを南西に行き、突き当ればそこはアッピア旧街道である。チェチリア・メテッラの墓あたりから、アルケオバスと660番のバスが通っているので、それに乗るためか、もしくは一休みのためか、腰を下ろしてる人がけっこういた。


北西に上がればカタコンベ。南東に下ればアッピアの遺跡



Capo di Bove

チェチリア・メテッラ通りとのT字路から下ったら、まもなくして見られる遺跡。どういった遺跡なのかは分からないが、「牛の頭」と呼ばれている。


右の標識に解説?が

画像を拡大して自分なりに翻訳したら、どうやら歴史文化省といったような役所の大臣による標識で、「アッピア通りの複合史跡、国有財産」となった。つまりここが重要史跡、史跡指定区間になっているということか。


しばらくは、現代の敷石の路面がつづいていた



往時の石畳の路面

この石畳が見えてきたとき、私は飛び上がらんばかりだった。早速しゃがみ込んで昔の路面を手で触ってみた。
ローマ式の街道は、車道と歩道を区別し、中央の4m強の幅の車道は4つの層からなっていたそうである。最上層は接面がぴたりと合うように切った一辺が70cmはある大石を、すき間無く敷き詰めていた。車道と歩道の境目には、なんと排水溝まで走っていて、雨で道に水がたまって荷車の車輪がとられることのないようにしてあったという。



…ローマ街道の特色の一つは、車道の両脇を排水溝が走っていたことである。幅四メートル、深さ一メートルの主道内に雨水が浸みこんで溜まってしまうような状態は、街道を堅固に保つうえでも絶対に避けねばならなかった。
 まず、街道の表面がゆるい弓形になるようにして、降った雨水や積もった雪のとけ水が自然に両側に流れるようにする。そしてその水は、排水溝に流れこむ。排水溝には、水が道の外側に浸み出すように、ところどころに穴が開いていた。この構造ならば、道の上が水びたしになる状態は避けられる。ローマのエンジニアのモットーは、「岩は味方だが水は敵」なのであった。
塩野七生『すべての道はローマに通ず(ローマ人の物語Ⅹ)』(新潮社)p36



自転車で街道を訪れる人も

ドミネ・クォ・ヴァディス教会までにある街道のインフォメーションで自転車が借りれるらしいので、自転車で街道を下る人もけっこういたのだが、昔の敷石の路面を走行するにはやっぱりきついようで、側道を走っている姿をよく見かけた。





遺跡も現われだした



これは最近のものだろう

つづく

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左奥にアッピア旧街道のインフォメーション

ローマ帝国の歴史を刻んでいるアッピア旧街道も、サン・セバスティアーノ門からしばらくは現代ローマのありふれた敷石舗装の道路がつづき、気長に歩くしかないという感じである。
しかし、街道沿いには、キリスト教に関心のある方はぜひ訪れてみたいであろう教会が建っている。


ドミネ・クォ・ヴァディス教会






「キリストの足形」

この教会に由来については、キリストの弟子ペテロについて調べれば出てくるので、ここでは触れない。
それにしても、「キリストの足形」とは(笑)。本当のところは釈尊の仏足石みたいなものだろう。


三叉路

ドミネ・クォ・ヴァディス教会の前からは道が三本に分かれていて、どの道を選んでもそれなりのものが見れるそうだが、私は左のアッピア旧街道をひたすら歩いた。








こんな雰囲気のオステル! 無性に一泊したくなった。






空模様に若干不安を覚えた…




というわけで、行けども行けどもこんな感じであった。さすがに面倒くさくなったので、バス停から118番に乗って、外を見ながらのドンブリ勘定な土地勘なき自分の勘頼りで、一気に南東へ下る。しばらくすると、アッピア旧街道からアッピア・ピニャテッリ通り(Via Appia Pignatelli)に入り、バスのスピードが増した。


チェチリア・メテッラ通りへ

バスには家族連れが乗っていて、私と同じように面倒くさくなったのだろうか、チェチリア・メテッラの墓やアッピア旧街道へと行けるチェチリア・メテッラ通りにつながる交差点らしきバス停で降りようとしていた。私は地元人でない人たちが降りるので、これは便乗したほうがいいと咄嗟に判断し下車した。念のため運転手に訊けば、交差点からチェチリア・メテッラ通りになっているという。


チェチリア・メテッラ通り

通りは少し上り坂になっていた。バスを一緒に降りた家族連れの中には年配の方もいて、ゆっくりペースで通りを歩いていた。家族連れはまだ不安らしく、私が道路標識を指して、この道で間違いないと言った。しばらくの間、家族連れと片言の英語で話しながら、再びアッピア旧街道へと向かった。

つづく

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カラカラ浴場から近いヌマ・ポンピーリオ広場

古代ローマを1000年に渡り支え続けていたものはなにか、といった大きな問いの答えの一つに、インフラの充実と整備を欠かさないことが国のあるべき姿を維持するという考え方を持っていた、という答えは、間違っていないだろう。
インフラの代表格といえば道路と水道だが、これらは国が国として成り立つ為に必要な動脈といえる。古代ローマはその動脈を、道路を例に挙げれば、人工の舗装された街道を敷設する技術、不断のメンテナンスを行いそれを維持するシステムを持っていた。また街道は一本だけではなく、ローマから帝国中にネットワーク化して張り巡らせていた。
その最初のローマ式街道がアッピア街道である。着工が前312年、カエサルが生れる200年以上も前に街道の敷設が始まったのだ。アッピア街道はローマ人から「街道の女王(regina viarum、レジーナ・ヴィアルム)」と呼ばれていたそうである。アッピア街道のアッピアとは、立案者の財務官アッピウス・クラウディウス・カエクスにちなんでいる。
アッピア街道(旧街道)は現在でもローマで見ることができ、自分の足で歩くこともできる。だが町の中心から少し離れている。


アッピア街道への自転車ツアー御一行

ヌマ・ポンピーリオ広場から、サン・セバスティアーノ門通りを南南東に行けばアッピア街道に行ける。


左がラティーナ門通り、右がサン・セバスティアーノ門通り

ラティーナ門通りを行けば、ラティーナ門やシピオーニ公園(スキピオ家の墓)の入口へ行ける。シピオーニ公園からサン・セバスティアーノ門通りへ抜けることも可能。


ドゥルーソ門



ドゥルーソ門の裏側から

サン・セバスティアーノ門通りを行けばドゥルーソ門が目に入る。ドゥルーソ門には草が生えていて、また鳥の巣ができていた。いかにも遺跡という感じで目を引いた。
ドゥルーソ「門」と呼ばれているが、カラカラ浴場へ水を通していた水道の橋脚だったようである。
ドゥルーソ門のすぐ後ろがサン・セバスティアーノ門だ。


サン・セバスティアーノ門



いよいよここからがアッピア街道

日曜日は交通規制してるので、観光客は歩きやすい。交通規制のための黄色いテープが張られているようだ。


パトカーも出てくれている



サン・セバスティアーノ門を後にする

サン・セバスティアーノ門はアウレリアヌス城壁にある18の門の一つだが、その中で最大かつ完璧な形で残っている門である。


アウレリアヌス城壁

アウレリアヌス城壁は紀元後3世紀になって築かれたものだ。セルヴィウス城壁を破壊して都市を拡張させたカエサルの時代とは異なり、紀元後3世紀はローマは防衛の必要性が不可欠になっていたのだった。
城壁や門が現在もしっかりした形を留めているのは、ローマの建築技術に加えて帝国滅亡後のローマ教皇たちが修復や補強をしたからである。


アッピア旧街道に入る



アッピア旧街道起点のマイルストーン(レプリカ)

前120年頃、グラックス兄弟の弟ガイウス・グラックスが立案した「センプローニウス法」が成立し、この法によって、すべてのローマ街道には1ローマ・マイルごとに石柱が立つようになった。↑はアッピア街道の第1マイルストーン(本物はカピトリーニ美術館蔵)で、これを見学に訪れる人はやっぱりちらほらいて、私と同じようにガイドブックを見ながら手を触れ、写真に収めているのだった。東京の日本橋が昔日の姿を留めていないように、アッピア旧街道の起点も車がビュンビュン(とはいえ日曜の一方通行ではあったが)通り、道も昔日の姿を留めていなかった。
しかし、レプリカではあれ、アッピア旧街道の起点のマイルストーンが立てられていたことには感動を覚えた。ここから、アッピア街道がローマからイタリア半島の踵(かかと)にあるブリンディシの港にまで通じているのだ。
街道が段階を経てブリンディシまで開通したのが第一次ポエニ戦争が始まりであるから、スキピオもまだ歴史上に名前が登場していない頃である。なおのこと驚愕に値する。昔日の街道を目にする為、街道を南南東へと足を運んだ。

つづく

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中国を舞台にした中国人作家の小説を読んだのは何年ぶりだろう。ましてや、中国の同時代作家の長編は初めてである。

『兄弟(BROTHERS)』(2005-06)は、中国の文化大革命の時代とその後の開放経済政策の時代に翻弄される二人の義兄弟、李光頭と宋鋼が主人公の小説である。
人間が自分の欲望のままに生き、政策や経済の波が押し寄せて町が変貌していくさまをありのままにグロテスクに描かれている作品なのだが、巻末の解説にあるとおり、現代中国がなぜ今のような姿になったのか、その当事者である中国人の姿を象徴的かつ喜劇的に描いてあるゆえに、顰蹙を買い同時に称賛もされたというのは読んでいて分かるような気がする。
読者にとっては不愉快きわまりない作品ということは、多くの場合本質を衝いているということだ。私個人は作品を読み終えて、大分前に19世紀のフランスの小説家バルザックの『ゴリオ爺さん』を読んだときに感じた不快感を思い出した。『兄弟(BROTHERS)』と『ゴリオ爺さん』とはストーリーは異なるものの、金の為なら何だってやる、すべてを吸い尽くそうとする飽くなき欲望を剥き出しにする点で、似ているように思った。
作品には自分の欲望をさらけ出して生きる人間と、その対極といっていい愚直で正義感の強い人間も登場する。その登場人物がどうなったかは、作品をお読みいただければわかるが、彼の末路について中国国内で批判的な意見があったということには、正直ホッとした。
現在の中国の若年層には文化大革命のことを知らない人たちもいるのだという。『兄弟(BROTHERS)』に出てくる文化大革命の姿は、少なくとも情報統制されたきれいな「革命」などではない、人々の実際の行為を描いているように思う。歴史は小説ではないという意見もあろうが、小説の方が年表を語られるよりもはるかに訴えるものがあることがある。のちの世代の歴史認識の風化は進むものだが、時の流れとともに埋もれてほしくない貴重な証言や新事実を得る努力へといたるまでの入口として、この作品に触れることも決して悪くない。

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ラファエロの墓。
墓に飾られている「石の聖母」は1520年にラファエロが
自分の墓のためにロレンツェットに委嘱したものである。

"パンテオン"とは「神々すべてを祭る神殿」、しかしローマ多神教の、というイメージが強かった私には、教皇のもとでバリバリ活躍した人間が埋葬されていることを知ったときに、正直違和感を覚えたものだ。



今となっては、キリスト教の神も神々のなかの一員であることだし、ラファエロも古代の彫刻をデッサンし研究したことで、多くの傑作を残し、彼が活躍したルネサンス自体、古代のギリシア・ローマの古典人文学的思想を取り入れた側面があるわけだから、パンテオンに彼の墓があっても私はなんら異議を挟む気持ちはなくなった。それに、誰でも訪れることのできるところにあるわけだから、それはそれでかえってよかったように思う。


パンテオンの床

現在のパンテオンはハドリアヌス帝が再建したものだ。前回触れたように、神殿正面の碑文にはアグリッパが建てたと刻まれているが、これはハドリアヌス帝が初代の建造者を尊重して刻ませたものである。
アグリッパの建てた角形の入口が南に開かれていたパンテオンは紀元80年にマルスの野を襲った大火災に見舞われて焼失した。その後ドミティアヌス帝の時代にもアグリッパの設計と同じ構造で再建されたが、落雷のために再度焼失(110年)。
ハドリアヌス帝は入口を北側に変え円形に設計したパンテオンを7年かけて再建。完成したのは125年である。だが、なんと床だけはアグリッパが前27年に建設した当時のままであるそうだ。












ハドリアヌス帝は、パンテオンを裁判所としても活用したという。
それにしても、193年にセプティミウス・セウェルス帝によって大がかりな修復工事が行われたとはいえ、古代ローマ時代の建築技術の粋を結集して建てられた大胆で独創性豊かな傑作は今も立派に建ち続け、訪れる人々を魅了する。建築構造的な工夫については解説を読めば、なんとなく理解できるのだが、これがキリストが生きていた頃から100年ぐらいしか経たない時代に建てられていたことに驚きを隠せなかった。


中からロトンダ広場を見る



柱も太い。どうやって建てたんですか?と思ってしまう。



パンテオン前に建つオベリスク

パンテオン正面のオベリスクは、もともと古代のイシスとセラピス神殿(現サント・ステファノ・カッコ教会)の入口に2本あったうちの1本であるとのことだ。


ロトンダ広場全体図、パンテオン


パンテオンを外から見てみた。















上の5枚に、アグリッパ時代の建設当時の遺構の一部が写っているのが分かる。床だけでなく、もともとのパンテオンを形作っていた遺構が残っているのだ。どうして残っているんだろう?と思ったが、後世の人間がアグリッパの功績をとどめておきたかったのだとすれば、それはそれで感動してしまう。

パンテオンはキリスト教の教会に転用されたことで、今に残り続けた。具体的には7世紀初めローマを支配した東ローマ帝国フォカス帝が、時の教皇ボニファキウス4世に寄進し、教皇はパンテオンをサンタ・マリア・アド・マルティレス(聖母と殉教者を祀る)という名の教会に変えたことによって残り続けたのである。現在は教会ではなくローマ時代の建物に戻っているわけだが、古代の神々やその神々を信仰した人々や古代ローマの技術水準に思いを馳せるよすがとしての役割をパンテオンは新たに担ったのかもしれない。また、シンマクスの思いはパンテオンを通して、彼が与えてくれる教訓を現代の人々になげかけるかもしれないと、私なりに浅い考えを抱いたのだった。

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ギターによるCanon(練習)

ひさしぶりによく知られているクラシックの曲にチャレンジしているが、なかなか難しい。聴かせどころの指のバタつき具合はまだまだしっかりギターを触れてないことがもろに分かるし、なによりミスを少なくしようとしてリズムを犠牲にしてしまっているのが現状である。
もっとマシになるまで、この動画をあげたままにしておこうと思う。

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パンテオン(Pantheon)

 しだいにしだいに、あらゆる神々はひとつの《全体》のうちに神話的な融合を遂げ、同じひとつの力の無限に多様な発現、いずれも等しい現われであり、神々のあいだの矛盾は調和の一様態にすぎない、と思われてきた。そして万神を祭る神殿――パンテオン――を、ぜひとも建立したいと願うようになった。アウグストゥスの女婿アグリッパによって民衆に捧げられた古い公共浴場のこわれ去ったあとの土地を、わたしはその神殿の敷地にえらんだ。その古い建物は、柱廊と、ローマ市民への献辞をしるした大理石板のほかは何も残っていなかった。その大理石板は新しい神殿の正面に、注意深く原形のまま据えつけられた。わたしの思想そのものであるこの記念すべき建造物にわたしの名がするされるということはたいして重要なこととは思えなかった。反対に、一世紀以上も年経たこの古い銘文が、帝国の初期、アウグストゥスが平和をもたらした治世に、この建物を関係させる点がわたしの気に入った。わたしは自分が革新した事柄においてさえ、自分を何よりもまず継続者と感じるのを好んだ。わたしの公式の父となり祖父となったトラヤヌスやネルヴァよりもさらにさかのぼって、スエトニウスの史書のなかでひどい扱いをうけている十二人のカエサルたちにすら自分とのつながりを見だした。(…中略…)この君主たちは人間的諸問題においてそれぞれの役割を演じたのであって、今後、このわたしがなさねばならぬ務めは、彼らの行為のなかから継続すべきものを選び、最上のものを強固にしに、最悪のものを改め、かくして将来、わたし以上に資格のあるか、わたし以下かはしらぬが、しかしわたしと同じく責任を負うた人びとが、いまわたしがしているようなふうにわたしの行為をとりあげるにいたるその日まで、その務めを果たすことであった。
『ハドリアヌス帝の回想』(ユルスナール・セレクション1、白水社)p181-182


多田智満子訳のM・ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』(1951)を読んだのはロシア文学やカフカを読んでいた頃だったが、数ページ目を通しただけで「何じゃこりゃ!?」と戸惑ったのを覚えている。当時はローマ帝国やそのなかの皇帝の一人について全くといっていいほど知らず、須賀敦子の『ユルスナールの靴』を読んだだけで『回想』も読めるのではといったうぬぼれた自信は、瞬時に崩れ去った。
しかし、今となっては、ハドリアヌス帝のことを事典で調べたくらいの知識のまま、自分にとって前衛的かつハードルの高い作品を背伸びして読んでおいてよかったと思っている。ローマへの旅の大いなるきっかけにもなった、『ローマ人の物語』と『回想』とを繰り返し参照する楽しさも与えてくれた、『回想』にある廃墟を再建する考え方と出会えて自分の嗜好をはっきりさせてくれた、『回想』の想像的自伝という方法が凝り固まった了見の狭い私の文学観を壊してくれた、など、とにかく私にとってはこの上ない影響を与えてくれている傑作の一つである。

ローマにいたとき、ローマ帝国の建造物で唯一完全な形で今に残るパンテオンはぜひとも見たかった。トッレ・アルジェンティーナ広場から歩いて北上したのだが、小路みたいな道路なので本当にパンテオンなんてあるのかどうか、不安に思いつつ足を進めたことを覚えている。


碑文の「M.AGRIPPA.L.F.COS.TERTIVM.FECIT」。意味は「ルチウスの息子にして三度執政官を務めたマルクス・アグリッパ(この神殿を)建立した」。




両側の扉は建築当時のものらしい

パンテオンのファザードと、中への入口に立っただけで、あぁ来てよかったと思えた。


V.エマヌエーレ2世の墓

V.エマヌエーレ2世はイタリア統一の立役者で初代国王だった。


天窓から入る光は刻々と位置を変える





聖母子

前27年、アウグストゥスが即位した年、彼の右腕のアグリッパが、アウグストゥスを生き神様として祀る計画でアウグストゥス神殿を着工した。しかしアウグストゥスは皇帝になったばかり、時期尚早と判断してその計画を中止させた。代わりにローマの神々および神となったカエサル像を祀った。これがパンテオンである。パンテオンは「神々の神殿」とも「神々の霊廟」とも、どちらの意味にもとれるようである。
パンテオンの形は、ハドリアヌス帝が再建したことで今に残る形となった。パンテオンについてはまた次回

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はじめてのチュウ(弾きなおし)

ギターによる「はじめてのチュウ」は以前にも弾いたが、譜面を勘違いして弾いたやつをそのままにしていて、ずいぶん経ってしまった。ようやくまともに譜面(といってもタブ譜だが)を見て弾きなおした。しかし今度は焦り弾きをしていたりする。なかなかうまくいかないものだ。

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