デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




雨が降ったせいもあり、両チームともピッチコンディションに苦しんだが、南アフリカは泥仕合に持ち込んで本領を発揮したし、ニュージーランドはスリッピーなコンディションのせいで肝心な場面でのハンドリングエラーが多かった。
ただ、この決勝のレフェリーのレフェリング、いや今大会全体のレフェリングは、アクシデントが危険な行為とみなされてシンビン(10分間退場)やレッドカードが出やすくなったことで、将来的にラグビーがサッカー化して、単なるアクシデントを相手を退場させる狙いで大げさに演技してレフェリーやTMOを欺くプレーが増える誘因になる可能性が高いと思う。
もちろん意図的だったり悪質である危険なプレーはよろしくない。しかし、今大会ほど、レフェリーとTMOが悪い意味で目立った大会もない。ラグビー界にとって喫緊の課題であるように思う。


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一年前のこの日、扶余と慶州にいたのでソウルにはいなかったが日本で心配してくれていた方々がいらしたのを思い出した。あとで事故の規模と被害を知って青ざめた。
二度とこのような事故が起こりませんように。


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群飲  


先月から手にしている本を読んでいて、最近、群飲(ぐんいん)という言葉に目が留まった。
群飲というのは古代中国の漢代において「3人以上がいっしょになって酒を飲む」ことである。漢代の法律では群飲は禁止されていた。(群飲の記述は『史記』に出ている)
禁止の理由としては3人集まって酒を飲んだら社会に対する不満を吐き出し合いその共感から色々と意気投合し、それが謀反の計画が立てられかねないことに繋がるゆえに群飲が禁止された、のが主な理由だそうだが、しかし官吏が群飲をしている例が史料中に出てくることなど珍しくない。実際、私が目を通した『史記』のなかに郡や町や村の官吏や庶民に酒を飲ませて、あたかも行政としての仕事をしないことを問題視するが実は、などというエピソードもあったのを覚えている。
集まって酒を飲んだらいけない、という法律があったことを目にしたとき、私はどういうわけか古代の「旧約聖書」のバベルの塔の話を思い出した。自分でも不思議なくらい突飛なことだと思いはすれど。
ノアの洪水のあと、ノアとその子孫が神から「たくさん産んで子孫を増やし地上全体に満ちて(満遍なく)住みなさい」と言葉をかけられたものの、東からやってきた同一言語をあやつる民がシンアルの平原に住み着いて天まで届く塔のある町を建てて有名になろう、そこで地上全体じゃなくてそこに集まって住もうとして建てたのがいわゆるバベルの塔だが、「同一言語をあやつる民が集団で住む」ことが神のいうところの「地上全体に満ちて(満遍なく)住みなさい」に反しているがゆえに、神が同一言語を民があやつれないように言葉を混乱(バラル)させ、塔を完成させようとしても言語が混乱したから企てはボツとなり、町の建設は行なわれなくなった、というのが「旧約聖書」のなかにあるバベルの塔のエピソードだ。
しかし、これって、結局のところ、人の子が集まっていろいろ企てると強大な力になるがゆえに、それを防ぎたいがための、最初から人を集めないようにしようという神による裏工作に他ならないといえると思う。もっとも、「旧約聖書」を書いた時代の人の事情としては、多くの人が集まった新バビロニアが隆盛を誇っている頃(ちなみに新バビロニアはユダ王国を滅ぼした)であり、地上のあちこちで遊牧で生計を営む羊飼いや族長文化が色濃い砂漠の民のためのような宗教としては、バビロニアの都市のようなものが嫌でたまらなく、人が集まってできたバビロニアの栄華の象徴の高い建物を批判の対象にしたのだろう。あたかも遊牧の生活をおくり、ひたすら神を崇めるのがまっとうな生き方で、都市にすごい建物をたてて栄華を誇る他の文明など堕落したものだと、いいたかったのではないか、と思う。
漢代の法律での群飲禁止と、「旧約聖書」の神が人の子の言葉を混乱(バラル)によって人の住む場所を散り散りバラバラにさせることは、統治のための手段と神話や文芸で描かれた神との約束事との違いという意味で完全に一致するものではないのは分かってはいるが、ただ、なんというか為政者や権威的な立場の人が庶民や大衆に対して意識的にしろ無意識的にしろ抱いている恐れや疑心、つまりは自分の立場を危うくする存在に不安を抱き続けているものだという点においては、古代の東西を問わず同じだったのではないかと感じた。それに現代だって、3人以上で酒を飲むどころか、街なかで友人と立ち話をしていただけで体制に対して都合の悪い集団とみなされ逮捕・拘留されたり、宗教上の戒律を盾にした治安維持と称して自分の勝手な印象だけで暴力を伴う取締りを行なっている国や地域もあるわけだから、やっぱり昔も今も人間は大して変化・進歩はしてないと思ったのである。


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前回大会ではスコットランドがこのような振る舞いで、イングランドがメダル拒否の振る舞いで顰蹙をかったが、ラグビー発祥の地の代表チームが非紳士的な場外乱闘をなりふり構わず繰り広げようとするのは情けなくなる。


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台湾の淡水にて


人生100年時代という言葉を耳にすることが珍しくないゆえか、谷村さんの死去に「まだ若いのに」と思ってしまった。
私の中では、谷村さんの曲で印象深いのは「チャンピオン」と「昴」だ。とくに「昴」は酒の席でギター弾き語りで友人や先輩たちと合唱したこともある。
そして、台湾の淡水でギターソロの「昴」を耳にした思い出も決して忘れることはできない。年代にもよるのだろうがアジア圏で意外と知られているんだ、と実感したものだ。

淡水は夕景が美しい


「昴」を弾いていたおじさん






夕景の雰囲気にとても合っていたし、淡水から台北に戻る時間だったこともあり、さらに名残惜しくなった。
谷村さんの訃報で旅行先のことを思い出せたのは楽曲の力以外の何物でもないし、「昴」は私の中でずっと生き続けると思う。

名曲をこの世に送り出してくださってありがとうございます。ご冥福をお祈り申し上げます。


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藤井八冠、おめでとうございます。
AIも日々進歩し、そのAIを使って研究をしている棋士も多いわけだから、タイトル保持者が多数いてもおかしくな時代なのに、とうとう八冠の偉業達成してしまったのには驚きしかない。将棋に関心のある人全員が、歴史の生き証人となったことを自覚したのではないか。
これから藤井八冠の牙城を崩す棋士が出てくれば、もっと将棋界は盛り上がることと思うし、そういった棋士にも注目していきたく思った。


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司馬遷(野口定男 他 訳)『史記(中国古典文学大系10・11・12)』(平凡社)、読了。

本当にすごいもの圧倒的なものを目にしたり、読んだり、鑑賞したり、滅茶苦茶美味しいものを口にしたときには、ただただ言葉を失うというかポカンとしてしまうとよくいわれるが、読了まで数年を要した『史記』も紛れもなくそういったすごいものの一つだと思う。こんなことを書くだけでも読了から1ヶ月以上かかるほどだ。
ただ、『史記』のどの個所も無条件に面白かったわけではない。貪るように読めた個所はどこかで聞いたことのあったり、『史記』の有名エピソードをおもしろく紹介した本で知った内容が出てくるエピソードだったり、以前読んだ『孫子』や、『論語』の孔子やその弟子たちが出てくる個所だったりと、私の場合は限られたものになった。全編の内、読んでいて眠くなり、また退屈になってしまい本を閉じて次の日は読めなくなったり、読んでいるうちについついスマホに手をやって動画サイトばかり見てしまうことも多々あった。実際、そういう個所は文字だけ追っていただけと言われても否定しようがない。
それでもこの紀伝体で書かれた、あまりに人間及び人間社会を洞察した内容は読む者の心を揺さぶることには間違いない。天道是か非かという問題は永遠に解決されないだろうし、生き馬の目を抜く動乱期であった時代を扱っているがゆえに、その中に忠義や礼を貫き通した人物たちが綺羅星の如く輝いていたりする。司馬遷が受けた処罰のことを思うと『史記』の内容を著者の生涯とだぶらせて読んでしまいたくなり、時に救いなど無いように思わされど、まったく救いのない話ばかりかといえば決してそうではない。
有名な作家が学者だったか、哲学の主要な命題のほとんどは古代ギリシャに出ているというがごとく、「中国の近代はむしろ古代に存在している」と言い放った人がいたように思うが、読み終えてみるとまぁなんとなくその人の言わんとしていることは分かった気になった。近代の人文科学で取り扱う内容が、中国においては古代中国の古典に凝縮されている、ということなのだろうが、私は、近現代であたかも発見された真理が前漢の時代にとっくに触れられて、とどのつまりは人間社会は大して変わっていない、古代も現代も同じようなことって多いと改めて感じた。
こんな私がいうのもなんだが、漫画でも小説でも舞台劇でも映画でも『史記』本編でも、一生に一度は『史記』のなかの親しみを感じるエピソードについて、大いに楽しみ考える時期があってもいいと思った。



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