「宇治十帖」が紫式部の筆によるものなのかはさておき、匂宮が光源氏の、薫が柏木の血を引く性格であることを読者は嫌でも分かるようにしているところはさすがである。
巻九を読んでいて私が勝手に思ったことだが、夏目漱石の『こころ』のKが薫をモデルにしているじゃないかと思えた(笑)。Kは禁欲的で「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言い放つが、実際の心の動きや行動を見ると、禁欲的で向上心などただの中二病ののたまいに過ぎなくて、私が思うに素直になれない硬派を気取る滑稽でイタイ奴だが、これって薫が宇治の大君(八の宮の娘の姉妹の姉のほう)と迎えた顛末にどことなく似ているなぁと。(作品発表の順からすれば、漱石がアンドレ・ジッドの『狭き門』の内容を知っていたかも知れない、という想像の方がまだ説得力をもつかもしれないが)
いま読んでいる帖が「浮舟」なので、「浮舟」を含めもうあと3帖で完結であるが、ここにきてようやく、プルーストの『失われた時を求めて』と『源氏物語』とを読み比べて、その意外なほど多い共通点を挙げて論じる著書があるのが納得できるように思っている。
登場人物が身に着けている衣服や衣擦れの音、小物、花や楽曲、歌、香りなどが、各々の登場人物に与えたことで起こる効果は"想起"や"感情の横溢"をもよおさせ、さながらプルーストが描いた記憶の間歇のごとくである。単に横恋慕や嫉妬、未練たらたらというのは簡単だが、『源氏物語』の繊細な感情の動きの描写は19世紀の近代小説に先駆けていたといえるだろう。
また、『失われた時を求めて』と『源氏物語』とを読み比べて論じたくなるのは、前者で出てくる社交界・サロンや避暑地・保養地と後者の宮内や山寺・郊外の邸宅で繰り広げられる上流階級の「生態」の類似点がある点も見逃せない。
もちろん、『失われた時を求めて』と『源氏物語』が似通っていることに着目して論じている著書にはもっと突っ込んだ深い考察がなされていた。近いうちに読み返したいものである。
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