不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています
デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



一年以上かけてもなんだかんだで読み続けているゲーテの『イタリア紀行』。一年以上かけて読んだ作品といえばフィールディングの『トム・ジョウンズ』を思い出すが、それ以来、いや『トム・ジョウンズ』よりも『イタリア紀行』の方が読了まで長い時間を要するであろう。ちなみに今回読み終えたのは『イタリア紀行』といっても「第二次ローマ滞在」が含まれていない。
ゲーテの書く紀行文は、自身が偉い人となっていたことに加え、多くの人間を見てきた人だった故か、いつも旦那臭を漂わせ常にエラそうな諦観でもって知にはたらきかけようとするところがあるように思う。しかし、いくらエラそうとはいえ、旅で起こったさまざまな出来事について脚色が少ないところは好感が持てる。感動したこと世話を焼いてくれた友人や旅先でのガイドへの感謝、不満に思ったことを、なるべくありのままに書こうとする姿勢が感じ取れる。
紀行文のなかには、人間世界が幸福なものになるにはといったことを考えていた、つまりは心底に彼なりの理想の人間社会像を抱いていたことに触れた箇所もある。物事はうつろいゆくことを感じさせたが、ゲーテは忙しい体であったにもかかわらず、半ば強引に「出奔」し、イタリアへ旅立ったことは、そのうつろいを自覚する機会になったことだろう。イタリアへの旅が後の彼の考え方や人生に決定的な影響を与えずにいなかったであろうことは、私でもなんとなく想像がつく。
紀行文の中で、一箇所思わず目を見張ってしまったところがあった。

     ローマにて、一七八七年一月二十五日
 過去を無視しては現在は認識できないし、両者の比較にはさらに多くの時間と落ち着きとを必要とする。世界の首都の地勢は、すでにその建設当時のことを回想させる。この地に定住して、一帝国の中心を思慮深くもここに設定したのは、偉大な、よく統制された移住民族などではなかったことは、すぐにわかることだ。また、権力ある君主が植民集団の定住地として、ここを適当な場所と定めたわけでもなかった。否、牧人やがまずここに居を定め、二、三の屈強な若者が丘陵の上に、世界支配者の宮殿の基礎を置いたのだ。かつて、その丘の麓にある沼地と葦の間にに、死刑執行人の気まぐれが嬰児の彼らを棄てたのであった。
~(略)~
この地方のことはまだよく知らないが、古代民族の都市のうちでローマほど悪い地形にあったものはないとぼくは確信している。そしてローマ人がついにすべての土地を使いつくしたとき、彼らは生きるために、また生活を享楽するために、ふたたび別荘を市外に建て、かつて破壊された都市の跡へ移らねばならなかったのである。

いつかどこかで読んだような気がしたものだったが、塩野七生の『ローマ人の物語(1)』の最初の方に書かれている考え方と非常によく似ているんじゃないか。ローマが拡大していくにあたりその原因を地理的な環境が動機付けとなったというこの考え方はゲーテの時代にはすでに誰かが発表していたのかもしれないし、20世紀以降の古代ローマ史の研究では有力な考え方として定着していたのかもしれないが、私個人はゲーテがローマ滞在時に既に書き残していることに驚いたのであった。古代ローマのことを研究する人の中には、案外、ゲーテの『イタリア紀行』から影響を受け触発されれた人もいるのではないだろうかと思った。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





山から近い学校からだろうか、ときどき部活や体育の授業で団体で訪れる中高生を見かけることがある。
火床で腹筋や腕立て伏せを号令に合わせてやっているのを見ると、私も10年前に履いていたズボンを余裕で履いて歩けるようになりたいと思うのだが、壁は厚く高い。
ただ、昨年から意識は変わってきて、理想を言えば流行のものを買って着るより、10年以上前に買った服で擦り切れていないものを着て歩き、「あなた、いつの時代の服を着てるの?」と人様から言われたいものだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




飛鳥寺の方角

明日香村には見所がたくさんあるようだが、帰りの車の渋滞の可能性を考えると15:00前には出発したほうがよさそうだった。






次にこれる時は朝早くか、ツアー旅行で来たほうがいいかもしれない。
疲れもあって帰路は長く感じた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




石舞台古墳を後にする



少し高いところから見下ろすこともできる



山に入ったら新たな古墳を見つける
ことができそうな雰囲気であった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )














石舞台古墳の概要や作り方の説については、上記の説明にあるとおりなので私からは触れない。
あと、この古墳の入場券には石舞台古墳の築造が7世紀の初めごろと推定されていて、蘇我馬子の墓の可能性があると記されている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




並川孝儀 著「『スッタニパータ』仏教最古の世界」(岩波書店)読了。

パール・バックの『大地』の次に読んでいた「『スッタニパータ』仏教最古の世界」。「スッタニパータ」は仏教の経典で最も古い経典であり、釈尊自身が悟りや輪廻や無我や涅槃についてどう考えていたかを知る上で欠かすことのできない資料である。並川氏の著書は『ゴータマ・ブッダ考』以来だが、この人の本は釈尊について後世が作り出した釈尊像に疑問を呈し、最古層の文献を読み込み原初の仏教を考察する姿勢が貫かれていて、最古の仏教に関心をもつ私には興味深い内容がとても多い。
今回も仏教のことについてたくさん考えさせられたが、本を読んで特に考えたのは釈尊は悟りにせよ輪廻にせよ涅槃にせよ、弟子たちが聞いていてなんとなくそうなんだろうなぁと納得するようなことは語ったが、それは案外漠然としていているもので、それはそれでよいのではないかということであった。現在仏教の薀蓄を傾けて語られるような難しいお経や戒律や宗派が重んじている教えは、釈尊の言葉が偏頗でもなく大らか過ぎることも無く中庸であったから起こった、ともいえるわけだ。
きっと釈尊も自分の教団が、教団として形を成していく過程で起こる諸問題に現実的な対応をしたであろうし、他の類似点のある宗教との諍いを極力避けてどう向き合うか考えたように思う。現実問題に直面したときに静かな物腰で中庸の態度でもって考えを説かれると、やっぱり皆が納得したのかもしれない。ひょっとすると思いの外、釈尊による案外漠然としている言葉は、釈尊が言ったから皆が納得したようなもの、たとえブッダ(目ざめた人)となった弟子が釈尊と一言一句同じことを語ったとしても、釈尊のキャラじゃなければ効力を発揮しない性質のものかも(笑)。なので釈尊亡き後の教団を継ぐ人間たちの仕事は、もっぱら生前の釈尊のキャラをそのまま伝えようとするのでなく、どのように教団を発展させるため肉付けしていくのかの作業だったのかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『儒教とは何か』を読んだ後、どうにも頭の片隅に残っていた道教の存在。一般的に日本の仏教は大乗仏教と大乗仏教の一部である密教と道教が混じったものであるというのは聞いたことがあったが、では道教について何か知ってるのかと思いきや正直分からない。で、たまたま見かけた奈良行博 著『中国の吉祥文化と道教』(明石書店)を読んでみた。
この本は中国における旧暦の年中行事の随所に道教俗神が顔を出すことについて、著者が実際に現地を取材したことをふんだんに盛り込んで述べてあり、中国の民衆にとって道教がいかに生活と密着したものなのか、また中国の民衆の道教俗神の信仰と日本のいくつかの地域で見られる道教信仰の共通点とその違いまで具体的かつ分かりやすく書いてある。
本には道教うんぬんの前に旧暦について書かれているのだが、その内容には私自身ショックを受けた。私はあまりにも旧暦なしには考えられない周囲の物事を知らなさ過ぎた。
たとえば、雑学クイズで

・甲子園球場の甲子園というネーミングはどこから来たのでしょう?

・子午線の子午の由来は何でしょう?

という問題が出たとしたら、たぶん昔の人ならなんら躊躇うことなく「甲子」の歳や、干支のことを簡潔に答えるだろう。その理由なんて当然過ぎていちいち説明するのも面倒くさがるかもしれない。
しかし私にはこの本を読むまで十二支と十干の六十甲子の組み合わせについて知らなかったし、十二や十が祝祭の吉祥数であることなどは本当に目からウロコだったのである。
本には旧暦の元日の春節に見られる吉祥、そのすがりの対象になっている道教神の例が出ていた。その内容は興味深いが、とにかく日本人に初詣が大切な行事ならば旧正月が中国人にとっていかに大切な日で、双方の「元日の迎え方」の違いの記述には納得がいった。中国人が日本人の初詣のことを理解し、日本人が春節祭に臨む中国人の心持ちを理解するなら、つまりはアジア諸国であろうが欧米諸国であろうが外国人の心の宝を大事にすれば世の中少しはマシになるように思う。私も正直なところ正念場で他国の価値観を蔑ろにするところが往々にしてあるが、たがいに頭ごなしに「あんたがたの宗教や生活習慣は変です」と言い合っているだけでは何ら進歩はなく物事は一向に進まないというのは分かる。たとえ偽善であろうとも。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




内部をじっくり見過ぎるほど見て外へ







遠めからのこのショットでも分かるとおり、石舞台古墳の石の前でなにやら木のステージを拵えていた。出口に貼ってあったビラで分かったのだが、この日の夜に石舞台古墳で月を眺めながら歌を詠むのだったか歌を聴くのだったか、そういったイベントの準備のようであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





先日、ギターの練習をしていたら以前のネコがまた寄ってきた。先月と異なり、今回はより近くに居座るようになって、私の前も平気で横切る。餌をやりにくる人に慣れているせいか、人間に慣れているようだ。捕まえようとすれば逃げるだろうが。
それにしてもこの耳の張りよう(笑)。餌をやりにくる人の足音や餌を入れているビニール袋の音が近づいてくるのを聞き逃すまいと集中しているのである。どんな音でも聞き分けて見せそうだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




8月に放送され録画したもののこれまで観れなかったパリ 狂騒の1920年代という海外ドキュメンタリーを視聴した。
なんどか触れているが、私にかなり強い影響を及ぼしている作品の一つにM・プルーストの『失われた時を求めて』がある。この作品は20世紀前半のパリの上流階級の人々をユーモアと滑稽さを交えて描き、またそういった人々の裏の面をときにグロテスクなのだが悲惨さを感じさせず追想でもって人々やその時代の美を見出させるような作品であるのだが、この作品を読んでいると作品のなかに出てくるサロンや避暑地、そこで起こる出来事を作品の語り手のように享受できる人々というのは、ごく一部であったことを忘れがちになる。
今回観たドキュメンタリーは小説に没入していたころの自分の意識に冷や水を浴びせられるような内容で、すごぶる面白かった。ロンドンやニューヨークに先んじて前衛芸術が花開き、前衛と極右が対立してなお時代のトレンドは存在し続けていた1920年代のパリの映像は恐ろしくもありまた甘美である。あの映像に映っていた有名芸術家たちは若くして貧乏していた時分だと学んだが、どの程度の貧乏だったのか、正直疑わしく思ってしまった。
あと、1920年代中ごろにパリを旅行で訪れたV・ベンヤミンが、ヨーロッパ各地やロシア、アメリカから人々が押し寄せた20世紀のパリの光景を目にして、どう思ったことだろう、彼の考える19世紀前半のパリと1920年代のパリとの違いと共通点はどういったところだろうとか考えた。まさか、『パサージュ論』にでてくる「目ざめ」は1920年代のパリと1930年代のパリとの対比がきっかけで「目ざめ」の概念が閃いたのではないかと、勝手な想像をはたらかせてしまったのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ