デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



二月堂の方を振り返る。






桜を見るために、一旦、春日野園地へと下った。


いろいろな桜が咲いていた


八重桜





春日野園地





市内にあって牧歌的な雰囲気を味わえるところだなといつも思う。





朝に見た若草山だ


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二月堂




東大寺と別の寺に見えるが、二月堂も東大寺境内の仏堂である。





二月堂の舞台


大仏殿が見える


一望するには若草山のほうがいいのかもと思ったが今回はパス




裏参道をくだる

土壁がまた雰囲気を醸し出している。






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二月堂へと上がっていくと鐘堂があった。

時間帯のせいもあるが奈良市内の有名寺院で
ひっそりとしている状態の所に立つのは初めてだった。


灯籠が立ち並ぶ





灯籠の脇には鹿もいたりする


落語「鹿政談」の枕で桂米朝が
「奈良では灯籠の数と鹿の数をかぞえきれたら願いが
叶うというが数え始めて四頭目で無理だと分かるという。
なぜならどれが四か分からなくなり、徒労に暮れるから」
といっていたのを思い出した。

二月堂だ。大きい!


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興膳宏 著『杜甫のユーモアずっこけ孔子』(岩波書店)、読了。

書名のとおり杜甫と孔子についてのみ書かれている本かと思いきや、いろいろな文人および古典に関するエッセイ集だったので正直戸惑った(笑)。第一部が『荘子(そうじ)』の世界からというのもあったろう。私自身、『荘子』については『老子』に影響を与えたというくらいしか知らず、内容に触れたこともなかったからだ。
そんなこともあって読了まで数ヶ月かかってしまった。しかし著者の紹介する『荘子』は、なんだかんだで『論語』の考え方を無意識に抱いてしまっている自分にとっては、非常におもしろく映り、結果的に『荘子』本編を手にすることになった。
また落語になった中国の古典の紹介もすこぶる興味を覚える内容だったし、紹興の農村に住んだ陸游(1125-1209)が実はエピキュリアン的な実践を自身に科していたことはこの本を読むまで知らなかった。
「兵車行」やかつての都へ帰る積年の望みが叶わない詩を詠んだ反骨の詩人のイメージが強い杜甫が、酒飲み列伝みたいなユーモアに満ちた詩を残しているという箇所を読んだとき、やっぱり学校教育で教えられる内容には限界があり、「教科書に載っているもの以外にもおもしろい詩がある」と知るのは難しいという思いを改にした。『源氏物語』で一番おもしろいところ、恋の駆け引きや怨念や男どもの滑稽な姿が教科書で紹介されないのと同じようなものだ。もっとも、興味や関心を抱き続ける子どもは周囲の目を気にすることなく、「ユーモアに満ちた詩」を自ら読み漁るのだろうが(笑)。
書名と内容との差異はともかく、中国の古典について聞いたことがあったり興味を覚えている人なら、辞典的知識やネット上のあらすじ知識状態から一歩踏み出すにあたり非常に助けになるエッセイ集だった。


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ユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス(下)』(河出書房新社)読了。

恋愛対象の人物像の判断基準をAIに訊ねたり、AIを恋愛対象にしたりする世界が訪れている…10年近く前に
の話題があったが、
人工知能が変える 恋愛も人の心も AIと「結婚」した男性
という記事も出たこともあって、これをきっかけに『ホモ・デウス』(下巻)の感想をまとめたくなった。おそらく、アニメキャラの抱き枕と結婚した男性のニュースは単なる笑えるネタにすぎなかったが、先日のAIと「結婚」した男性の記事は、今となってはまだ珍しい部類の記事に入りはするものの、『ホモ・デウス』(下巻)の「八七パーセントの確率」の項で述べられる将来的に人間が抱く自己欺瞞を許さないコンピュータの一歩手前のように思ったのだ。逆にいえばハラリの本を読んでなければ上の新聞記事により注目することはなかったことだろう。
AIの活用が世界を席巻する早さはすさまじく、あらゆる分野でAIが人間の活動に影響を与えまた人間に取って代わってきていている事実について、ハラリの紹介する事例はユーモラスな描き方だけに切羽詰った感じを受けた。
とくに著書の中で語られる医療の分野でも、AIのほうがより精度の高い検診と適切な治療を行なえる世界が到来するとなると専門家の職が必要なくなり、それはカウンセリングなどの精神医療の専門家もAIに取って代わられる事態を招くかもしれないことを思うとなおさらである。専門家が判断を誤ることは今に始まったことではないし、それならばいっそのこと、というわけだ。実際上のような事例が起こっている。
また、著書の中で容赦なく分析される「人格」についてだが、確かに真の自己など存在しないのはそのとおりだろう。読んでいる最中、人間の精神活動を侮るな!と叫びたくなったが、叫んだところで近代以降人間が求めてきた内なる声が衝動的で自己欺瞞に満ち移り気なものである冷徹な指摘は認めざるを得ない。
人間が主張できるのは、せいぜい記憶がその当人らしさをかたどる、という程度かもしれない。将来的に人間の記憶の取り扱われ方がアーサー・C・クラークやジョージ・オーウェルの世界と同じような形をとっていく感じになっていくかもしれないというのは分かる気がした。
ただ、SFの世界は過去に未来世界の姿として論文や小説で示されたことであることをハラリは書き忘れていないし強調しているようにも思う。つまり昔の読み物で歴史を学べるだけ人類は未来選択の余地を確保でき、過去の失敗の二の轍を踏まずテクノロジーと付き合っていく最良の選択を行なうことがまだ可能であることを著者が示しているのは大いなる希望であると私も思った。少なくとも、ヘーゲルの「歴史から学べる唯一つのことは、人間がなに一つ歴史から学ばないということだ」という警句くらいは念頭においておきたいものだ。


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東大寺大仏殿の正面の中門(江戸時代に建てられた)


線香をあげる担当者もマスク姿だ

大仏殿にも入りたかったが今回はパス

中門の左に立つ持国天





このあたりを担当していた警備員さんから
正倉院や二月堂のことを教えていただいた。

正倉院の正倉は外構から見れることができるが10:00からということなので、それまでは二月堂を拝観することにした。


デザインが明治時代っぽく思えた。立てられて100年も経ってなさそう。






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東大寺参道


人がちらほら


鹿は店先であろうがおかまいなしである(笑)。


東大寺南大門

参拝客、観光客が多く通るので鹿せんべいの屋台も連なる。当然、鹿も集まる(笑)。



南大門についてはこちらにあるのでここでは触れない。




二体の金剛力士像は平安末期生まれと推定される鎌倉時代の僧・運慶と快慶の作とされるが、その流派でもって総力を挙げて制作したのだという。二人だけでは到底成し得なかったろうと今なら思える。

中門に近づいてきた

南大門のほうを振り返る




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奈良県庁が見える。

先月下旬、奈良に行ってきた。5・6年前の関連記事にしたく思ったので、タイトルを奈良(24)とした。

朝のせいかまだ歩行者を見かけない


若草山までは、少し頑張れば歩いて行ける距離だ。


さっそく鹿たちのお出迎え。奈良国立博物館は
臨時休館中だが鹿には関係ないといわんばかり…


鹿せんべいの露店も朝から








左に氷室神社


氷室神社の桜はもう咲いていた




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カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』 (土屋政雄 訳、ハヤカワepi文庫)、読了。

カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞したニュースが世界を駆け巡ってから書店で品薄になった作品の一つ。尤も、受賞によるブームが去ってしまったら、手にしやすくなったなぁ。3年も経てば仕方の無いことなのだろうか…。
それはともかく、作家がどれほどのビッグネームであろうが、なるべく作品そのものに対して良かったかいまいちだったかを第一に考えたいと思ってはいるのだけれども、カズオ・イシグロ作品は(三作品目の読書とはいえ)さすがだなと、私の中では作家名だけで一定の評価が固まりつつある。
今回も、読み手が読書中に抱きがちな物語の展開や予想をいい意味で裏切ってくれた。読み終えたときに「すごいねぇ。考えさせられるねぇ」といった唸りしか繰り返さないような、この記事を読んでくださっている方々に対して何一つ伝わらないみっともない物になっているのではないかという感想しか出てこないほどだ。
舞台の設定が中世のグレートブリテン島、中世の伝説をモチーフ?にしている。作品の登場人物たちは決して特別な人間ではなく、過去の記憶を忘却してしまってはいるがそれでも日々の生活には困ることのない普通の人々である。
歳を重ねたことですべてを忘れ去る前に離ればなれになった息子に会いに、また自分たちの過去のことを思い出すために旅に出る老夫妻が主人公である。旅が進行するにつれ、想起を阻む霧が間歇的に薄まったり晴れてくるにしたがって、普通の人々の辛い過去の記憶が明らかになる手法には舌を巻く。話の展開に水を差すように思えたガウェインやエドウィンの回想も物語のクライマックスにとても効果を発揮する伏線の張り方として正直うならされた。
作品の内容について、上記のことや人間の習性にするどく切り込む内容だったという以外、ネタ割れは避けるが、この作品も読んだ者しか分からないというインパクトを残す。映画でも小説でも、作品を鑑賞した人、作品を読了した人と話せる機会はあるというのはありがたいもので、幸いにも私の周囲に作品を先に読んでいた方がおられた。ネタ割れもなしに私が読了するまで話題に出さなかったその高潔な精神がなければ最後まで読むことはできなかった。改めて感謝の念を抱いた次第である。


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谷崎潤一郎の墓と紅枝垂

 …タキシーを拾って平安神宮に向った。
あの、神門を這入って大極殿(だいごくでん)を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を蹈(ふ)み入れた所にある数株の紅枝垂(べにしだれ)、―――海外にまでその美を謳われていると云う名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉(も)みながら、毎年廻廊の門をくぐる迄(まで)はあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女達は、忽(たちま)ち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、
「あー」
と、感嘆の声を放った。この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘(わた)って待ちつづけていたものなのである。
谷崎潤一郎『細雪(上)』(新潮文庫) p178~179

哲学の道の記事というより、哲学の道から東に一筋入った法然院の墓地の谷崎潤一郎墓を久しぶりに訪ねた記事になる。
『細雪』で描かれる平安神宮の紅枝垂ではないが、やっぱりこの画像には姉妹が平安神宮を訪れるあの場面を引用したくなった。
墓の横に寄り添うように植えられている紅枝垂が咲いていた。春に墓地を訪ねたことがなかったというのもあるが、墓石の横に植えられているのが紅枝垂だと、実はこれまでずっと気づかなかった。
谷崎潤一郎の墓についてはかなり以前にも触れたことがあるが、今回、この紅枝垂の存在に気づけたこともあって、植えた人がいかに作家が京都を愛していた気持ちを大切にし、作家を敬愛していたか、窺い知ることができたように思えた。




お参りもした。

法然院の墓地からも山に登れるが、そのルートをずいぶん久しぶりに使った。

火床から

良く晴れた日で、夕日もきれいだった。


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