『吾輩は猫である』(以下、『猫』と記す)の初読は夏休みの読書感想文を科せられるような時分じゃなかったか、と思うが、文字を追って無理やり読み通した記憶しかない。(恥をさらすようだが)それでいて周囲に鼻につく態度で「この作品は奥が深くて面白い」などと言い放っていたような気がする(笑)。日本国民の誰もが知っている作品、しかし最後まで読み通せた人は案外少ないゆえ読んだことがステータスであると思わせるところがあって、それを漠然と悟っていたであろうゆえの俗物根性から発した言だから性質が悪い。
しかし今になって再読し最後の一文を読み終えるまでに私の中で沸き起こってきた気持ちは、とんでもない作品だなという一言に尽きる。そして漱石が研究した英文学の作品の影響を強く受けているんだなと思った。
いつだったか、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』をそれこそ根気強く他愛も無い会話に付き合うがごとく読んだが、『猫』でも改めてそれを髣髴とさせるようでなんだか懐かしい気持ちになった。ただ、『トリストラム・シャンディ』も脱線を楽しむ文芸作品だが、やっぱり『猫』のエピソードの流れと脱線のほうがはるかに読みやすい(笑)。
世間には『猫』に関するすぐれた論や考察が溢れているが、歳をとって分かるのは『猫』に登場する面々の性格やふるまいは苦沙弥(くしゃみ)を代表にそれこそ身近な人の典型であるところである。単に「うわぁ、いるよなぁこんな人」と大いに共感してしまうところ、といっていい。
同居し長い時間を共にすごさないと見えてこなかったり、いくら理想を振りかざそうが結局人間社会ってこうよねぇと思わされたり、非情なまでにどうしようもない愚かで滑稽な人間の性(さが)について心をチクリとさせられたり、いたたまれなくなるような作品を、昨年は谷崎潤一郎『細雪』、年末年始にかけて紫式部『源氏物語』、ここにきて『猫』と、なんだか読者にとって「美味しい毒」となるようなこれらの作品を波状攻撃を受け止めるかのように手を出してしまったが、これらはなんだか諸外国が日本を知る上(はっきりいって日本を心理的に攻略する上)で必読の書であるという感覚が私の中でじわじわと占めてきている。
同時に魯迅の
『故郷』の再読のおりにも書いたが、「ネコの視点」から描くという発想を除いて『猫』も中学生相手に教えれるような作品じゃないんだろうと思う。とはいえ、『源氏物語』を受験対策のために原文で頭ごなしに読まし教えられる側がどんな物語なのか分からないままでいるよりは、『猫』のほうがまだ文芸に親しむうえでいいきっかけになっている作品であるのは否定できないと思う。