デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ネタ割れ注意です。

何度も同じ作品を読んでいると、なにが描かれているのは承知の上なので、今回はどのように描かれているかを緻密に読むことにした。
読み進めながら、
アリョーシャは信仰に篤いが同時に人に対する洞察力を持ち合わせていて、無神論者がどういった者かといったことも理解している人間であり、
イワンはとかく「反逆」と「大審問官」が注目されがちだが、同時に23歳の若者で人を見下してばかりいて、キリスト教の矛盾と不合理を衝きはするものの、ホサナを唱えたい、しかしホサナなど信じていないという、自分の思想で信と不信で常に揺れていつつ、情欲は人一倍強い痛々しい奴であり、
ドミートリイは素行が荒く放蕩に身をやつすが、自分のすべてをさらけ出し、自分の罪深さや周囲へ感謝する気持ちを知る人間で、彼がもし人を殺めたとしたら、良心のうずきを隠せないような人間である、
ことが改めて分かった。
ドストエフスキーが書こうとしていたとされる「カラマーゾフの後編」のことを考えなくとも、『カラマーゾフの兄弟』は19世紀のロシアの現状を踏みつつ俗的な聖書を小説の形で書こう、聖書を部分的にパロディ化して小説へと昇華しようとする試みが立派に結実したものであることは否定できないであろう。
既に指摘されていることかもしれないが、アリョーシャが僧院を出るのはキリストが磔にあって墓から復活したことのパロディのように思う。つまりキリストの磔刑が、アリョーシャにとってはイワンの「反逆」と「大審問官」と「ゾシマ長老の遺体の腐臭」にあたっているのではと思う。
ただ今回私は、「大審問官」で問題にされている聖書の中の「荒野の試み」のパロディが、アリョーシャの体験するイワンの「反逆」「大審問官」、「ゾシマ長老の遺体の腐臭」、「ラキーチンにグルーシェンカの家に連れて行かれる場面」にあたるのではと考えた。これらの試みのあと、グルーシェンカの「一本のねぎ」を経て「ガリラヤのカナ」に至る、その三日後アリョーシャは俗界へと出るという風に。
あと、当たり前のことかもしれないが、アリョーシャの手による「ゾシマ長老の一代記」は、「一本のねぎ」と「ガリラヤのカナ」の体験なくば、書かれなかったものとして読むべきものであることに改めて気づいた。あまり「カラマーゾフの後編」のことは考えたくないが、「一代記」はおそらくドミートリイの判決のあとに書かれたのだろうと推察する。これは「一本のねぎ」「ガリラヤのカナ」(あと「裁判」)を経ていないアリョーシャが、イワンの思想と対峙出来るはずがないということも考えてのことだ。たとえアリョーシャが「反逆」と「大審問官」の影響を深刻に受けてなお信仰を失わなかったとしても、そのような彼では「一代記」を書くことなんてできず、書けたとしても義務としてゾシマ長老の記録を留めておくような無味乾燥な「説話集」にしかならなかっただろう。俗界のグルーシェンカやイリューシャたちと触れ合い、かつイワンという人間を理解したからこそ、ゾシマ長老の話をもとにアリョーシャが自分の言葉で書いたのが「一代記」なのだ。
今回の読書では「論理以前に人を愛す」ことのできるアリョーシャとドミートリイを見ると、頭はいいが決して他人に愛情や感謝を示す上でへりくだったり相手を対等に見ようとしないイワンが、プライドだけはやたら高い子供っぽい青年のように思えて仕方なかった。彼の偉大なところは「反逆」と「大審問官」で今なお解決されないすべての人間の問題を提示しつづけていることだが、「鹿がライオンのすぐそばに寝そべる」世界をこの目で見たいという性急さを隠すことができず、かつその世界を実現するための心根をもつことができない、いわば頭でっかちな人間でもあるのだ。
「鹿がライオンのすぐそばに寝そべる」世界を神が実現させないなら「すべては赦される」といったことを言い出すイワンだが、(そう言い出したい気持ちは少しは分かるものの、)いざ「すべては赦される」という己が考え出した崇高ですべての人が平伏すであろう「偉大な思想」が、上っ面だけ目をかけてやっている下男によって「偉大な思想」を僭称され、つまり「思想」がフョードル殺しの動機の理論の基にされてしまった途端、それがちっぽけで安っぽいものに成り下がってしまったという屈辱を覚える彼の姿は、読んでいて本当に痛々しいし憐れむべき存在であるように思う。そんな彼を、アリョーシャとドミートリイは包み込もうとするのだ、(もっともドミートリイは牢屋の中からではあったが)二人はイワンよりも心が広い、表現としては微妙だが大人なのだ。
また作品について何か思ったことがあったら書こうと思う。

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今回の『カラマーゾフの兄弟』を読むにあたって、前もって心しておいたこと。

①「後編」のことは考えない。
②さまざまな学者や在野の評論家・作家の解釈を読書の最中に挿まない。
③作中に出てくるエピソードや警句からドストエフスキーの生涯や評伝の内容を読み取ろうとしない。
④登場人物の性格を一言で言い表すような「整理」はしない。
⑤小説と現実とを区別する。
⑥作品は必ずしも時間的順序に従って書かれていないが、ときには時間的順序を考えて作品を読み取るようにする。
⑦書かれていることをありのままに読む。

とはいえ、どれもが私にとってみれば困難なことだった。とくに①②③⑦はどうやっても、私自身の中で邪魔が入ってしまった。たとえば「大審問官」のあとイワンとアリョーシャが別れるときに、アリョーシャは歩いていくイワンを後ろから見ると彼の右肩がいくぶんか下がりめになっているのに気づくが、それは「メフィストフェレスの隠喩だ!」などと勝ち誇ったようにわかった風に読んじゃいかんと、わかっていてもどうしても以前聞いた「斬新な解釈」が浮かんできてしまうのは否定できない。尤もこういったことは他の場面にも恐ろしいほど自分の内部からたくさん出現してきて、四度目の読書ながら、自分で自分に当惑してしまった次第である。
人文書や教育書、社会問題を論じた書物、またはそれらについてメディアを介し発言する人にままあることだが、書かれてあることをありのまま読まず、自分の解釈をおのれの情念の強さでもって強硬にかつ狷介(けんかい)に「独自解釈」を一般大衆に押し付けて、その「独自解釈」が実は根本的におかしいんじゃないの?と言われた途端、嘲りと憤怒と罵詈雑言を駆使して
「それは君の勉強が足りないんだ、バカだなぁ」
と平気で言ってのけられてしまう事象ってあるだろう。私なんぞは、そんなことを「偉い人」から言われると、「教養」という言葉にひどく敏感で劣等コンプレックスすら直ちに抱いてしまう決して少なくない数の一般大衆の一人だから、すぐに「私が間違っておりました」と認めて、大審問官に付き従う人々みたいになってしまう。
そのことを防ぐために↑7つを前もって心がまえておいたのだ。ようするに今回の読書の目的は近年の『カラマーゾフの兄弟』読書に見られる「ヘンテコ解釈」を払拭、払拭できなくともどこがヘンテコなのか自分の頭で考えて把握すること、そしてなにより作品をあるがままに楽しむことであった。
私にはロシア人の友だちがいる。その友だちも『カラマーゾフの兄弟』が最高の小説だと熱く語ってくれた。私はロシア語は読めないが、ロシア語の原文に忠実でかつ作品を細かく読み取った上で丹念に翻訳されたテクストから読みとれる『カラマーゾフ』を読んだ上で、作品に対する感想を友だちに述べたいし、それはロシア人の友だちだけでなく普段から接する友人・知人に対しても同じであることに変りはないのだ。

(たぶん、つづく。)

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