デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



一ヶ月以上前のことだが、黒田清輝(くろだせいき)展に行ってきた。
黒田清輝は日本の美術史では日本洋画界に大きな影響を与えたとのことだが、私は展に足を運ぶまでこの画家の名前すら知らなかった。
1866年生まれの黒田清輝はフランスで絵画を学び、帰国後次々と話題作を発表した。展では代表作がたくさん展示されていて、なかには重要文化財もあった。
クールベ、ミレー、コロー、セザンヌ、ルノワール、マネ、モネ…etc、どこかで見たような画風の作品が多く、全体的に「いろいろ混ざっているな」という印象に尽きる。代表作『昔語り』の下絵を見れたのは貴重だったように思う。

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先月下旬『春の戴冠』を読み終え、こちらに感想を書いたが、この記事も『春の戴冠』の感想である。しかし前回の感想とは大分異なる。

『春の戴冠』を読んでいて、(語弊があるかもしれないが)よく日本人がこんな驚愕すべき作品を書いたものだ、ある意味おそろしいと思い始めてしばらくして、作品の前半の半分くらいだったろうか、私は作品にトーマス・マン臭を覚えだして、そのことが『春の戴冠』への没入から私を救ってくれたような気になったものだ。それから間もなくして作品の作風というか手法が、処女作『廻廊にて』と実際のところあまり大差がないといえば辻作品ファンの怒りをかうかもしれないが、ベースは同じだという風に思えてきて、これが辻邦生の型なんじゃないかと、したり顔になって分かったような気持ちになり、これもまた「辻邦生マニア」となるかもしれなかった可能性から私を救ってくれたように思うのである。
もちろん言葉の用い方、表現の精密さは処女作よりも『春の戴冠』のほうが優れており、言葉を大事にする作家の円熟期を迎えた作品が『春の戴冠』であると思った。また円熟期を迎えた作品である故に、『春の戴冠』に囚われてしまう読者はどうしても出てくるように思う。失礼な書き方になっていたらご寛恕願いたいが、もし辻邦生作品の世界に没入し、出てこれなくなった人がいたならば、私はその人にトーマス・マンの作品、とくに『ファウストゥス博士』を読んでいただきたいと思っている(できれば『ヨゼフとその兄弟たち』も)。
というのは『春の戴冠』とマンの『ファウストゥス博士』はある意味「そっくり」なのだ。『春の戴冠』に見られる精密さにこだわった表現や人物の外貌の執拗なまでの繰り返し、語り手の自己嘲笑やフモール(ユーモア)、語り手が数十年前の過去を振り返るという体裁であっても現在の時間軸の時事的な事柄が入り込んでくるポリフォーン(多声性)などが特にそうであろうと思う。辻邦生の前にマンあり、ということが分かれば辻邦生作品も冷静に俯瞰できる気がする。
そっくりというテーマから少し脱線するが、『ファウストゥス博士』の物語を時間的に二重の平面で繰り広げる(トーマス・マン『ファウストゥス博士の成立』より)特徴は、『春の戴冠』のクライマックスにおいては三重となっている。この点は私のような若輩者でも、ここ数ヶ月、京劇の歴史や中国の文化、儒教についての本を読んだこと、および中国を舞台にした傷痕ドラマ映画を見ていたこともあって、辻邦生が嘆かわしく思っていたであろう現代的な出来事を作品に生かしたことが分かったのだ。(ただこの場面については物語の終盤にきて『春の戴冠』というタイトルの香りを読者に微塵も覚えさせなくなってしまったのが残念な点として挙げられる。とはいえ、それにしては露骨すぎてはいるもののフィレンツェにあっても同じようなことが起こった可能性として一考する余地があると思うので、かえって読んでいて気持ちがいいほど憐憫を覚えてサバサバした気分になるのは私だけだろうか。)

傲岸不遜なようだが、読書の悦びは作品に先人の作家の影響を見出すことである、と私はここ数年思うようになっている。ここではトーマス・マン作品と『春の戴冠』の類似点について私の思うところを書いたが、同時に、マンの精密な表現へのこだわりと作風をよくぞ自家薬籠中のものとして自分の作品としても昇華した点で、『春の戴冠』は一筋縄ではいかない驚嘆すべき、しかしどこか教養に興奮したころの懐かしさを味わわせてくれる作品であることも付け加えておく。(ちなみに辻邦生全集(新潮社)には、解題に辻邦生自身がトーマス・マンからの影響について書いている箇所が引用してある。正直、「私の勘は当たっていた!」と自慢したくなったものだった。)
ほかに感じたこととして『春の戴冠』にはマンだけでなく、美と永遠性についての止揚と逡巡、その懊悩を解決するための手がかりとしてフィチーノ哲学の慫慂を表現する場面では、プルーストの『失われた時を求めて』を髣髴とさせる言葉が散りばめてあるように思った。20世紀のプルーストが中世のボッティチェリの言葉の形をとって顕れる混淆は意外なほど面白い。それはたぶん美への執着やアプローチが昔も今も大して違わないことを示唆していると私には感じられた。

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かつてどうしても手に入れたかった作品が、以前ほどその作品に対する執着が薄れたことを書くのに深刻ぶる必要はないのだが、古本市にて作品のことが分からなくほどになったのは初めてなので、やっぱりそのことは覚えておこうと思う。
その作品を今になって再読してみると、当時、クラムスコイの絵の鑑賞のための予習とはいえ、やっぱりどんなものであれ感動しようとしたんだなと思う。そして誤字がいくつかあったクラムスコイの伝記の影響がよほど強かったことも思い出した。その伝記はなかなか手に入らず、結局図書館の人が探し回ってくれたおかげで、他館からの相互貸し出し資料として読んだのだ。期限があったのでそれこそむさぼるようにだ。その勢いのまま伝記の中で紹介されていた『ディカーニカ近郷夜話』を探し出し読んだ。とはいえ古本でも手に入らず、古本店や古本市があれば探すようになっていたが、その探したい気持ちが未だに続いていたのかもしれない。

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И・クラムスコイ『ルサルカ』(1871)、モスクワ,トレチャコフ美術館蔵

ルサルカというのはロシアの民話に出てくる妖精みたいなもので、洗礼を受けずに死んだ女の子や、世をはかなんで身投げした女の子たちが「ルサルカ」に変身するといわれている。
ゴーゴリが作家として文名が上がった作品に『ディカーニカ近郷夜話』がある。『五月の夜、または水死女』はその中の一編なのだが、この作品がこちらで触れた作品である。
19世紀ロシアで活躍した画家の一派に移動派という活動組織があった。クラムスコイはそのリーダー的存在であった。
クラムスコイの出身地はウクライナと非常に近く、彼はウクライナ出身のゴーゴリの作品を愛読していた。『ルサルカ』はもともとゴーゴリの『五月の夜、または水死女』の挿絵として構想された可能性が高いが、完成した作品は当初の挿絵のプランよりもより幻想的で、まるで現実と夢の区別がつかないような妖しくも美しい仕上がりになっている。


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手洗いを済ませた後、再び中へ



七福神の布袋さまみたいに思った(笑)



この角度でも特大仏塔はシンメトリーを
意識して作られていることがわかる。

それにしてもこの「布袋さま」(たぶん僧の像?)、目がにこやかじゃないんですけど(笑)。


夕暮れ時にくるのもいいかもしれない



次は本堂のほうへ


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親ロ派、「敗戦パレード」強行=捕虜50人に罵声や水―ウクライナ(時事通信) - goo ニュース

ウクライナ情勢のニュースを聞く度に、私は悲しくなってしまうのだが、上のような醜行は悲しさを通り越して情けなくなってくる。
そういやドストエフスキーにいろんな意味で影響を与えた作家ゴーゴリはウクライナの出身だし、ドストエフスキーの晩年の肖像画や死の床の作家の肖像を描いたクラムスコイもウクライナの近くの出身だった。
神と戦い、心理の相克を描き出した19世紀の大作家およびその大作家と関わった人物たち縁の地を旅したくとも、いくら時間とお金があったとしても、すんなりと安全にその両国を行き来できないというのは嘆かわしいことだ。

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特大仏塔から降りたあとは境内の店へ

絵葉書にどういったものがあるのか気になり、10枚1セットの絵葉書(縦長のミシン目入りタイプ)が店頭にかけてあったので早速見てみた。
バンコクの有名な観光地が写された絵葉書で欲しいと思う絵面がなかったが、私の様子を見てさっそく若い女性店員が話しかけてきた。「えはがきセット、にひゃく(200)バーツ」と日本語で聞いた瞬間すぐさま「高っ!」と思ったので、「マイ・アオ(要らない)」と即答した。
すると「100バーツ!」って言ってきた(笑)。「半額かよ、それでも高いわ(笑)」と言い残し、さっさとその場を離れ別の店へ。









仏教徒なら持ってるだけでありがたくなるようなお土産品で溢れ返っていた。もちろん仏具や仏様のアクセサリーはワット・アルンの境内だけでなく、街のさまざまなところで見ることができる。

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以前も書いたかもしれないが、私は書籍を購入するにあたっては、一度読んで再読するであろう、また再読したいなと思った本や、旅行先での二度と手に入らない好みの絵画の画集といった貴重本かどうかを、よくよく考えてから購入の判断を下す。正直自分でも神経質というか偏屈なまでに、本を手にしたときの購入の衝動を抑えてしまうところがある。ただの吝嗇かもしれないが(笑)。

ただ、先日の古本祭りで、以前なら猛烈に欲しくてたまらなかった本であったのに、見開いてみると「はたしてこの作品だったろうか?」と自分の記憶を疑ってしまったことがあったのは、自分でも意外であった。本(古本祭りで置いてあったのはペーパーバック)は、正確にはその本に所収の短い作品が欲しかったのだが、冒頭の数行を読んで、どういうわけか私はかつてその作品に無闇矢鱈に感動した記憶(印象)自体が揺らいだ気がした。タイトルも登場人物も翻訳者も同じだし、同じはずだ。でも「異なるもの」のように感じた。
で、私の小さい書棚に並べるのはやめておいたのだが、実のところ今、ハードカバーの分で内容が同じものを図書館から借りて手元にある。図書館で借りれたのは、正確なタイトルを古本祭りで再確認できたからなのであるが、本は何年も書庫に埋もれていたのを手にしたような感じである。作品に対しての「異なるもの」のような感覚は未だに強い。わずかな可能性として再読してまた欲しくなれば古本で再会したくなるかもしれないが、そうなった時には二度とめぐりあえないかもしれない。

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特大仏塔から降りるとき、手すりをしっかりもって足で階段を一段一段確認しながらゆっくりと降りたものだったが、本当に上の画像のような極めて急な勾配になっている。


こうでもしないと写らないくらい



近くで特大仏塔の全体をカメラに収めるには苦労する



右奥に本堂?が見える


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魯迅『故郷』を再読。再読といっても訳者は異なる。今回は藤井省三訳で読了。

この作品は今も中学校の教科書に載っているのだろうか…。中学校のころを思い返すと、『故郷』やその授業についての記憶として、コンパスやチャーという単語、有名な最後の文、教科書の『故郷』を教えた国語担当教諭の「九州から出てきて都会でいろいろあったあと帰省したら心が落ち着く、だけど『故郷』の主人公はその点かわいそう」といった恣意的な感想だけが漠然とした印象として残っている。
今回再読してみて、作品は中学校の教科書に載っていてもいいとは思うが、清から大戦前の中華民国までの中国の歴史およびその混迷、地方におけるヒエラルキーの漠然としたイメージを少しも押さえていない中学生の年齢で作品を理解するには到底難しいのではないかと思った。また上記のとおり、教科書を用いて教えた国語担当教諭も『故郷』について読み込んでいたとは思えないし、作品の背景すら把握していなかったように、今にして思う。おそらく『故郷』を、教諭が個人的に帰省先で農作業を手伝い充実した時間を過ごし、旧友と再会し大人になっても身分差など意識する必要もなく「タメ口」で昔話に華を咲かせ抱腹絶倒し懐かしみ、また明日からの生きる活力を得るような自らの「よき思い出」と、作品内のエピソードを無理やりつなげ、つじつまの合わないことを放置したままそれこそしみじみと「人が歩いたところが道になる」などと分かった風に「まとめ」ていたように思う。
もっとも、そういった授業になってしまったのは、教科書に載っていた『故郷』の訳文のせいもあったのかもしれぬ。その点、今回読んだ藤井省三訳の分は、大人になり子をもうけた閏土(ルントウ)も、より歳を重ねたコンパスのおばさんも語り手に対して親近感と身分差が並存している呼びかけ方をしていて、教科書の『故郷』みたいなともすればかつてお互い身分差などなく対等な立場だったと読んでしまいそうになる「理想の故郷」ではないことを、読者が察しやすい分かりやすい訳となっていた。語り手は、帰省した時点では無自覚ではあるが、これからの社会はもっと分け隔てのない良い社会であるべきといった理想を心の奥底に抱くまだ若い大人なのであり、その彼が故郷を引き払うため里帰りして間もないうちに、なんだかんだいっても語り手の家は名家である(あった)ことから、地方の身分差が依然として露骨に存在していることを肌身に感じるのだ。それはコンパスのおばさんだけでなく、少年期の語り手が英雄視していた閏土兄ちゃんが大人になってからとる語り手への恭順の態度・姿勢にも表れる。くりかえすようだが、今回私が手にした『故郷』ではそのことが良く分かる訳になっている。
ラストの道うんぬんは私からは語るまい。ただ、魯迅の小伝を読んでみて、小伝で触れられている魯迅に影響を与えたとされる作品以外に別の作品の影響もあるなと感じた。

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