一昨日は読書について停滞気味であることを書いたが、ちょっとしたきっかけで中島敦の短編『山月記』を読んだ。(以下ネタバレあり)
私個人は初読だが、学校で習ったという人も少なくないだろう。ちなみにちょっとしたきっかけというのは↓の動画を見たからである。
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内容は見ていただけたなら分かる。いろんなツッコミが入るかもしれないが、読書のきっかけにはなると思う(笑)。
さて、作品についての感想だが、昔の文体はとても格調高く美しいと思ったと同時に、やっぱり解説註を繰りながら読み進めたので、煩わしかったのも事実だった。
それにしても、どんな作品にもパロディにならぬものはないと思うが、自分の語りたいこと描きたいことを古典に見いだし、それをアレンジをして作品に仕上げる力量を感じさせる作品を久しぶりに読んだ気がする。
といっても私に古典のことなどわかるはずもない(笑)。しかし、私の中では李徴の性格がこれまで読んだ小説や見た戯曲に登場する人物像とダブったことを記しておきたい。李徴の言を読んでいるとその内容が、シェイクスピア『コリオレイナス』、モームの『人間の絆』、プーシキンの『駅長』の主人公や語り手の人物像と似ているように思ったのである。
『コリオレイナス』?と思う人もいるかもしれない。もちろん、李徴は母親との偏愛など語ってない。しかしコリオレイナスの肥大化した自尊心は、賤吏に甘んずるを潔しとしない李徴とどこか似ているように思ったし、特にモームの作品で描かれる自分の自由意志こそ実は最もアテにならず迷妄であることの権化は李徴が歩んできて嘆いていることと類似しているように思う。そして、『駅長』との共通点は、もし李徴の姿が虎の姿ではなく酔っ払った駅長が語ってたとしたら?という、少々いじわるかもしれない私なりの解釈だ。自嘲的に嘆いているときの姿は虎になってようが、酔っ払っていようが、その形態(実態)はいっしょだと思うのだ。
むちゃくちゃな言い方かもしれないが、↑のような共通点をこじつけさせてもらうと、人間は昔から芸術家の人物像、その性格や創作の源泉・霊感や意識というものにすこぶる関心を寄せていたものの、それを描ききる決定打など、そう簡単に見いだせないことに、常にあえいできたように感じるのだ。もちろん、後世にも読まれ鑑賞されるものを書いたり描いたり作曲したりする人のなかには李徴のような人もいたかもしれない。しかし、世間一般がもつ「芸術家のイメージや内面」そのものを深く冷徹に見つめなおした、作者の中島敦自身のメタをネタにして描かれた作品というべき『山月記』は、「世の理解が無い」と嘆く芸術家の本音と実態を赤裸々に描き出しているように思う。
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