デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫)全8巻のうち1・2巻読了。実はかなり前に全巻読んだことはあるので再読である。
かつて司馬遼太郎は
「日本には歴史研究と歴史小説しかない。君はその中間を行こうとしている」
と塩野七生に言ったが、『坂の上の雲』に限っていえば"その中間"そのものだろう。それも塩野七生の書くものよりはるかに質の落ちたものとして。
作品の冒頭から「列強」までの内容は歴史小説としてあまりよろしくない。率直に第1巻のトルコに対する書き方がひどいなあと思ったし、第2巻の日朝戦争と日清戦争の記述は足りないところが多すぎると思う。
作家には作品を書く時点で知り得る調べる得る知識・資料の限界というものがあるのは承知しているが、言い訳がましい免罪意識なんかかなぐり捨てて、明治時代の日本が朝鮮を我が物とするため清朝と帝政ロシアが邪魔だったと堂々と書けばいいのに、作品内で頻出する「祖国防衛戦争」を説明するくだりは読んでいて正直興が冷めた。戦争になる前に粘り強く交渉するも決裂し、帝政ロシア軍艦が日本海や太平洋沖に押し寄せて大砲・巨砲を日本国に向けるのみならず実際に日本を砲撃し被害が出て帝政ロシア軍を追い払うための戦争が祖国防衛戦争というのであって、植民地争奪戦を祖国防衛戦争とは言わないのは私でも分かる。他、いちいち挙げると限がないが、ロシアと対立していたイギリスから得た情報だけで山県有朋らが「既成事実」をつくり軍の予算を獲たこと、北清事変での日本軍の実態なども、第二次大戦後ならば作品を書いている時点で知り得た(おそらく作者は知っていた)ことを作品内に反映できていないのはやっぱり気になった。
作品は明治時代の日本が、19世紀後半の欧米列強の手並みに倣って清に関税自主権を認めさせ台湾を獲り、朝鮮を自由処分にできる成果をあげるまでの一時期を、作者の書きたい部分だけ良いように書いたあくまで小説・フィクションであり、せいぜい下駄を履かせたところでセミ歴史小説といえよう。一応、第3巻以降も読む予定。


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