
アルコールを含むか否かも全て括って、「酒」とは、単なる致酔飲料ではないと思っている。
酒は嗜好性が高い。その嗜好を掴まえるための、あらゆる努力や、時間を、熱意と夢を持った人々が費やして、製品となっているものだと思う。
ドラッグストアの安売りコーナーに、山と積まれている「その他の酒類」でさえ、そのヒトツだと思っている。
ただ、このようなモノだって、「飲み手」によっては、タダの「致酔飲料」と蔑まれることが多い。
酒を楽しんで、ともに盃を交わし、ヒトを楽しんで、その結果として酩酊することもあると思う。それは、いい。
ここから、自分の卑しい部分を露呈して、恥じることなく生きている人種がいる。
彼らは、通常、「ヨッパライ」と呼称される。残念ながら、社会は彼らに対して、驚くほど寛容だ。
飲酒していない状態なら、鉄拳による制裁を受けても已むを得ない発言であっても「ヨッパライを相手にすんなよ」などと、こちらが抑圧されたりする。
ふざけるな。勘違いもはなはだしい。
酔っていない時には、そのような発言はないし、反駁しても先方には通じないのだから、止めておけと言う理屈だ。
だが、こちらは、彼らに蹂躙される理由は、何一つ、ない。
この、己が不愉快を、彼らに刻み込まないことには、得心がいかぬ。
従って、オレは、ヨッパライの発言でも、決して、許さない。恥を知るがいい。
報復は、させてもらう。
GUZZLE、ガズル、と発音する。「がぶ飲みする」と言う意味だ。かつて、ロータリーエンジンは「GAS GAZZLER」と評された。ガソリンをがぶ飲みする者、だ。
なぜ、ガソリンをバイクにがぶ飲みさせなければならないのか。
別に、チビチビ楽しむのだって、いいじゃないか。無理に酩酊する必要はない。
暴力と表現しても余りある、エンジンのチカラを解放し、その雄叫びに恐怖を感じつつも、自分の心の奥底に潜む魔物に正面から対峙する。
オレは震えながらも、心の拳を、ツメが掌に咬み込むくらい強固に握り込む。
彼に飲み込まれないように、自らの眼光にさらに光を与えるべく、強く見据える。
この、魔物は俺の心から、決して退去しない。棲み続けている。対峙しつつも制御するしかないのだ。
彼に飲み込まれることは、滅びを意味する。彼を受け入れることは、自らが怨嗟の起点になることだ。
オレは、彼を深く愛しているのだ。オレの心は、いつも、彼に会いたいと熱望している。
そして、オレは、ギアを蹴り込み、さらにアクセルを振り絞る。
心の奥に棲み続ける、魔物に会うために。
そう、そして、この行為は社会的に、ヨッパライ行為と違わぬものでもあることも、オレは、知ってしまっている。
恥を知らなければならないのは、他ならぬ、自分自身なのだ。
さらに、社会は、ヨッパライに対する寛容さをコチラに向けたりは、しない。
覚悟しておかなければならないコトなのだ。
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