曹洞宗の名刹「西福寺」の開山堂は雲蝶の「道元禅師猛虎調伏の図」で知られています。
「開山堂」とは、そのお寺を開かれた御開山様である初代の御住職様をおまつりする御堂のことで、西福寺では御開山芳室祖春大和尚様と曹洞宗の開祖様である道元禅師様を中央に、その周りにお寺を守ってこられた歴代の御住職様がおまつりされているそうです。
この開山堂は、23世蟠谷大龍大和尚様により建立され、建築の様式は、鎌倉時代禅宗仏殿構造、屋根は茅葺き二重層、上層部入母屋造り、総欅五間四方、唐破風向拝を有し、嘉永5年(1852)起工、安政4年(1857)に完成。
開山堂内には、堂内の天井三間四方全面に施された雲蝶の素晴らしい彫刻と絵画が施され、現在はアナウンスを聞きながら拝観することができます。
写真撮影は不可なのでお届けできませんが、開山堂の作品を雲蝶に依頼したいきさつを西福寺のHPでは次のように記されています。
西福寺の開山堂は、江戸末期の嘉永5年に起工しました。
この開山堂を建立し、構図を決めて石川雲蝶に彫刻絵画の装飾を施させたのが、当寺23代目の住職、蟠谷大龍(ばんおくだいりゅう)和尚様です。33歳という若い住職でした。
大龍様は、この雪深く貧しい農村地域の人々の心の拠り所となるお堂を建てたいという前住職の志を引き継ぎ、お釈迦様や道元様の教えこそが人々の心を豊かで幸せに導いて下さると信じて、是非この開山堂にも道元様の世界を再現したいと考えました。
そこで、すでに三条に入り、本成寺や栃尾の貴渡神社に彫刻を施し活躍している雲蝶のうわさを知り、この魚沼に招き入れました。雲蝶39歳の時です。
歳の近い二人はすぐに意気投合して、開山堂にかける熱き仏道心を大龍様が語れば、雲蝶はその思いをよく理解し、彫刻という形にして見事に表現してくれました。
また、雲蝶にとってもこれだけの大きな仕事を一人で任せられるのは初めてのことで、大龍様の大きな信頼のもとに思う存分仕事をし、彫刻家として大輪の花を咲かせています。
大龍様との出会いは、雲蝶の人生に大きな影響を与えました。
しかし、歳の若い住職が貧しい農村地域に宗教性芸術性の高いお堂を作るにあたり、大変な障害や苦悩がありました。
時は幕末の混乱期、人々は様々な考えを持ち始め、度重なる天災で貧富の差も激しくなっていました。
立派な開山堂が完成すると、地域の人々は喜ぶ一方で寺ばかりが贅沢をしているという心無い噂も広がります。
大龍様はそんな不穏な状況を自分が身を引くことで打開します。開山堂の落慶式(安政4年)に導師となられることなく住職の座を退き、隠居として他寺へと移られました。
しかし、二人の交流はその後も続き、雲蝶はひとつ仕事を終えると大龍様の寺へやって来て、酒を酌み交わし語り合ったということです。
さて、開山堂以外は撮影可です。
雲蝶は絵師としての才能も発揮し、本堂内の襖には石川雲蝶が絵を施しています。
花鳥をはじめ、龍虎、三顧の礼などモチーフ。
「孔雀遊戯図」
「美保の松原」
こちらは狩野松州作の襖絵。
400年位昔の物ではないかといわれ、当寺の寺宝です。
大縁廊下の床板には、雲蝶によりいろいろな形の埋め木が五十数箇所わたり施されています。
埋め木とは床板の節や傷を修復する時に使う技。
こちらは「瓢箪」良くできていますよね。
節や傷を見事に瓢箪や木の葉などの彫刻に生まれ変わらせてしまう、雲蝶の技と遊び心には、感動してしまいます。