営業マンだった私4

2001年12月17日 | 会社・仕事関係

銀座に行って、資生堂のビルに着いて私は驚いた。
それまでアポがとれて訪問した会社は、
みんな小さかった。
商店街の中にあったり、郊外の工業団地だった。
社長が採用担当をしている会社もあった。
受付のきれいな女性に、来社理由をいい、
4、5階だったかの人事課に行った。
私に会ってくれた担当者は足が不自由で、
歩くときに体を大きく上下させていた。
さっそく会社の企画の話をすると、
そのとき資生堂では、
九州地域で働く
大量の美容部員を募集するところだといった。
タイミングがよかった。
その日に掲載が決まり、
私は、天にでも昇る気持ちで会社に帰った。

会社に戻り、社長、部長に報告すると、
「おまえな、広告業界にいる人間はあんなところに
 電話なんてしないよ。だめなのわかってるから。
 おまえはたいしたもんだよ」
と部長はニコニコしていってくれた。
社長もこのときは笑顔で、
他の人もよろこんでくれた。
私は、何度か資生堂に行き、
担当者と原稿の打ち合わせをした。
この人がいいひとだった。
「資生堂が広告出すときは、
 全部電通でやるんですってね」
私は訊いてみた。
「そうですが。私には関係ない。
 あなたに出したかったんです」
私は変わった広告にしたかった。
普通、求人広告は横書きだったが、
私は縦書きの広告をつくった。
それでいいということになり、
私の資生堂の求人広告は、読売九州版に載った。

しかし、私の営業成績はこれくらいで、
あとは鳴かず飛ばずだった。
いいかげん求人広告の営業がいやになった。
はじめは釣りをしているようで、
魚の引きがあるときは楽しかった。
しかし、毎日まいにち浮きが動かないと、
面白くなかった。
地道に作業服を着て、
ものでも造ってるほうがいいと考えた。
それから私は、アポがとれたと嘘をいい、
会社を出ては職安に行っていた。
求人広告をとる営業マンが、
自分の就職を探していた。
子どもが生まれるまでに、
かたい仕事をしたいと願った。
そしてなんとか、
板橋にある時計の部品を製造する会社に
就職を決めた。
竜功社には8ヶ月勤務した。
このときだけは毎日スーツを着ていた。
その前後、
私はスーツとは縁のない仕事をしている。
何年後かに、
御徒町に行ったついでに竜功社を訪ねたら、
その会社はなかった。
                (了)

コメント
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