12月8日は、1975年に龍彦が23歳で死んだ日です。
多くの人は、12月8日はジョン・レノンの命日だと思うでしょう。
その年の8月に龍彦は、駒込の私のアパートに女性と2人で来た。
その人と結婚したいと龍彦は私にいった。
龍彦と彼女は、萩焼きの窯元で一緒に働いていたらしい。
萩の窯元からその春に2人で抜け出して、九州のほうを旅したらしい。
私の知り合いの福岡にある九想窯(きゅうそうがま)にも行ったという。
九想窯は、私の友人のお兄さんの窯で、私は26歳のときに新婚旅行で訪ねている。
そこから龍彦と彼女は、東京の私のアパートに来た。
その夜、3人で飲んだ。
龍彦は、彼女と結婚したいと私にいった。
私は龍彦に、「おまえがちゃんとした仕事についたときに結婚しろ」といった。
翌日、私のアパートから出て行った2人のその後を、くわしくは知らない。
9月になって龍彦の母親から、備前で病気になり入院していると手紙が来た。
龍彦は、女性とは結婚しないで備前焼きの窯元に弟子入りしたということだった。
そこで働いているときに倒れて病院に入院したらしい。
私は有給休暇をとってすぐ備前に行った。
最初に龍彦が働いていた窯元に行って、私は彼が働いていたロクロを見せてもらった。
あいつがひねった茶碗などがいくつか置いてあった。
それから病院に行った。
龍彦は、喉に人工呼吸器をつけられて寝ていた。
龍彦の病気は、脳髄炎といわれた。
(あの東京に一緒にきた彼女は、大阪から何度も看護に行っていたらしいです)
その夜私は、弟に代わって龍彦のベットのわきに深夜3時間ほどいた。
「喉からへんな音がしたら、痰が喉にからまっているからなので、
この機械でバキュームして下さい」と弟にいわれた。
龍彦の喉から痰がからまった音がしたとき、人工呼吸器の管を外し、痰をバキュームした。
あのときの痰をバキュームした音が今でも忘れられない。
12月8日に龍彦は亡くなった。
私は彼の葬式に山口県まで行った。
龍彦のふるさとは、錦帯橋の架かる錦川の上流にあるところだった。
龍彦の遺体は、石の上で焼かれた。
そのときその土地には、火葬場というものはなかった。
茨城の私のところでも、墓場の隅で藁などを燃やして火葬をしていた。
龍彦が好きでよく歌っていた井上陽水の「紙飛行機」を聴いて下さい。
あいつがボクシングをやめてから、私がギターを教えた。
それまでクールファイブの前川清の歌しか歌わなかった彼が、一番好きだった歌です。
井上陽水 紙飛行機 (ライヴ)