「ザワつく!金曜日」(テレビ朝日18:50~)で、1980年にヒットした歌の中で、
1位の歌を当ててはダメ、というクイズをやっていた。
私は夕食を食べながら妻と観ていた。
妻は「異邦人」が1位かな、といい、私は「ダンシング・オールナイト」だといった。
1位の曲を当てなければポイントがもらえるというクイズです。
私は自信があった。(しかし、私が当たってもポイントはもらえない)
残りが「別れても好きな人」「さよなら」「ダンシング・オールナイト」の3曲になった。
石原良純が「ダンシング・オールナイト」と答えた。
「あぁ・・・、だめだ」と私は呟いた。
MCの高橋が「『ダンシング・オールナイト』は、1位(ためて)で・・・す」という。
それまでは「1位では・・・、あ~りま、せん、でした」と演技たっぷりにいうのだが、
石原良純は1位を当ててしまってポイントが0になった。
やはり1位は「ダンシング・オールナイト」だった。
1980年の春に私は、求人広告をとることが仕事の小さな広告代理店を辞め、
時計の部品加工をする会社に転職した。
7月に双子の子どもが生まれる予定という、私が27歳のときでした。
広告代理店では仕事がとれなく毎日が針のむしろだった。
営業という仕事より、身体を動かして物を生産する仕事が自分には合っていると思い転職した。
転職したK製作所は、時計の文字盤やガラスに印刷をする会社で、
私はパートの女性12・3人と一緒に仕事をする部署に配属された。
タコ印刷機で時計の文字盤に印刷をする仕事だった。
(リンクしたサイトの印刷機より、過去の手作業の印刷機です)
女性が印刷するタコ印刷機のガラスの版を、機械に設置する仕事をしていた。
女性は、ガラスの版に金属のヘラでインクをつけ、それをヘラでカットして印刷をする。
それをやっているうちにヘラでガラス版を傷つけてしまう。
そのガラス版を私が交換するというのがメインの仕事だった。
そのガラス版の位置合わせが難しかった。
私より5歳若い男の子と仕事をしていた、というより、その人に仕事を教わっていた。
3ヶ月ほどでガラス版を取付られるようになり、私はひとり立ちをした。
その仕事をする作業場は、K製作所の4階にあった。
そこは最上階で窓も大きく明るい作業場だった。
8時半から17時までが定時で、毎日2時間ほど残業をしていた。
仕事をしているときにはラジオがかかっていて、TBSラジオを聴いていた。
そのときによく「ダンシング・オールナイト」がかかっていた。
それでその年の一番のヒット曲は、「ダンシング・オールナイト」だと思ったのです。
思えば「異邦人」もよく流れていた。
しかしその会社も2年後には、時計メーカーからの仕事が減少して潰れてしまった。
タコ印刷の自動機で印刷する会社が出てきて、
手作業で印刷するK製作所よりコストが安くなったからです。
妻と1980年の流行った歌のことを食事しながら話していて、
私は、そのときの私の暮らしのことを思い出していた。
その年の7月3日に息子たちは生まれて、私の家の生活は忙しくなった。
双子を育てるということは、言葉ではいえません。
赤ん坊は3時間ごとにミルクを飲むのですが、双子がずれると1時間半ごとに飲むのです。
最初母乳でしたが、足りなくなりミルクにした。
夜中、妻と私で交代でミルクを作っていた。
残業してきても夜中にミルクを作っていた1980年でした。
その年の12月8日に、ジョン・レノンは銃殺された。
ダンシング・オールナイト もんた&ブラザーズ