朝食を食べながら女房と今日どこにいこうか?と話した。
「今日は、布団など干してこの辺、湯川ふるさと公園などをぶらふらしてもいいかな」
とつまらないことをいう。
私としては、せっかくの休みなのでどこか行きたかった。
明日私は仕事なので女房は1人でこのあたりを散歩すればいい。
そういうわけで、今日は前から私が行きたかった碓氷峠見晴台に行くことになった。
以前、車で見晴台に行こうとして旧軽井沢銀座の裏道を行ったら、道路が狭くて帰ってきたことがあった。
どこか駐車場に車を停めて歩いていくことにした。
雲場池の近くの町の駐車場に停めることに決めた。
ここは無料なんです。
駐車場を11時5分に歩き始めた。
月曜日ではさすがに観光客が少なかった。
見晴台への道路を歩き始めて女房と私が話したことは「車で来ればよかった」ということです。
何台か車が通りすぎた。
羨ましかった。
歩いていて暑くなってきた。
疲れるし、正直私は帰りたくなった。
「峠の茶屋」の看板があったときはうれしかった。
そして10分ほど歩いたら見晴台に着きました。
これは長野県と群馬県との県境です。
この水墨画のような群馬県の山々に感激しました。
見晴台を下って熊野神社に行った。
剛直の冬の妙義を引寄せる
日本武尊「吾嬬者邪」咏嘆の処
賽銭箱が2つあります
この神社は実は2つなんですね。
真ん中に長野県と群馬県の県境が走っているのです。
長野県側が熊野皇大神社、群馬県側が熊野神社なんです。
おどろきました。
私は、2つの県をまたいでいます。
県境のラインがずーと引かれています。
車のところに戻ってきたのが14時10分、約3時間の散歩でした。
疲れました。
今日もよく寝られそうです。
昨日、女房が軽井沢に来た。
午前11時に軽井沢駅着なので私はその時間を目指して駅に向かった。
駐車場に車に停め歩いていくと軽井沢駅前で女房と会った。
高速バスが順調で10分前に着いてしまったそうだ。
それからアウトレット(軽井沢プリンスショッピングプラザ)に行った。
昨日まで春のバーゲンをやっていたので私の着る物でも買おうか、となったのです。
さすがバーゲン開催の日曜日ですね。
駐車場に入るのに少し待たされた。
風が冷たくて辛かったが、久しぶりのアウトレットを女房と歩くのは楽しかった。
最初に入った店で気に入ったラガーシャツがあったので買った。
6,900円が値引きされて3,900円だった。
それから行ったのが、佐久のJA佐久浅間です。
ネギぐらいしか買う物がなかった。
そして駒場公園の駐車場に車を停めて駒場屋内プールに行きました。
開場まで20分ほどあったので外のベンチで待っていて、1時に入りました。
私は、水中ウォーキングをしたり泳ぎの真似をしたりです。
女房はそこそこ泳げるので、泳いだりウォーキングをしたりという感じで、2時半ぐらいまでいた。
最後は“駒場温泉”でのんびりしました。
“駒場温泉”というのは、
私の入っているプールの会のみんながプールの隅にあるお風呂をそう呼んでいるのです。
駒場公園を出て、帰りに軽井沢のツルヤで夕食の食材を買って家に帰りました。
家に着いて、昼食として私は、アンドーナッツと牛肉コロッケパンを食べた。
家に着く頃から眠たくて私はコタツで寝た。
午後7時に目が覚めた。
女房が夕食の準備を始め、8時に食事になった。
私が希望したのは天ぷらです。
食事していても私は眠たかった。
がまん出来ないので9時頃寝ました。
11時に起きようと携帯電話にアラームをセットしたのですが、目が覚めたのが今朝5時10分でした。
いったい私は、昨日の夕方から何時間寝ていたのだろう?
この何年かは、5時間以上は続けて寝ていられなかった。
これは、プールに入ったからだと思う。
スイミングは、“睡眠goo”なんですね。
今朝の目覚めは快適でした。
肉体が適度に疲労していたのでしょうね。
あらためて私は、「水中での運動」をこれからもしていこうと思いました。
スイミングといえないのが哀しいですね。
そういうわけで、昨夜は九想話を書けませんでした。
紙飛行機 LIVE / 井上陽水 / (1973年4月14日新宿厚生年金会館)
龍彦が死んで36年か。
あいつが生きていたら今のおれをなんていうかな。
あいつはうるさくおれの生活にいろいろ口をはさんだ。
おれも龍彦の生き方にああだこうだいちゃもんをつけた。
そのうちあいつは、ボクシングをやめ、会社をやめ、東京を離れ大阪に行った。
しかし、半年もすると東京に舞い戻ってきた。
またおれと毎日のように会いギターを弾き、酒を飲んだ。
この歌は、龍彦とよく歌った曲だ。
この「紙飛行機」という曲は、龍彦を歌ったとしか思えない。
おれが龍彦にギターを教えたのにおれよりうまくなっていた。
東京にいるときに龍彦がおれにギターを貸せというので貸しておいた。
しばらくして「おれのギター返してくれ」というと、
「質屋にある」という。
生活費がなくなり龍彦は、おれのギターを質屋に入れてた。
おれは、急いで質屋にギターを取りに行った。
このギターは、おれがギター製作所をやめた頃買った手工品で4万円した。
次の年、おれは本郷三丁目の薬品会社に就職したがそのときの月給が4万円だった。
たしかおれは、自分のギターを5千円で引き取ってきたと記憶している。
この会社には、龍彦と同じ新聞の求人広告を見て入った。
龍彦は、昼間働いて夜にボクシングジムに行きプロボクサーを目指していた。
おれは、お茶の水にある夜間の予備校に入った。
彼は、薬品を大学病院や研究室に配達することが主な仕事で、
おれは、社内で薬品を作っていた。
社員が10名弱の零細企業だった。(10年ほど前に本郷三丁目に行ったら会社はなかった)
おれは、夏が過ぎた頃、予備校に行かなくなっていた。
冬になる頃、龍彦はプロテストに受かった。
ところが、デビュー戦の1週間前に
「人を殴るのも、人に殴られるのも怖くなった」といってボクシングをやめた。
それからいつも会社が終わると2人で酒を飲んでくだをまいていた。
でもその頃、龍彦もおれも本を読んだ。
おれがそれまでの人生で一番読んだときだったと思う。
龍彦もそうだ。
あいつは、それまで本というものを読んだことがなかった。
ものごとを解決するのは殴り合いで、理屈なんていらないといっていた。
その頃、駒込に「のみたや」というスナックがあった。
そこに、山谷で日雇い労働をしていた I さんがバイトとして入った。
秋風が吹く頃、山谷には仕事がなくなったからだ。
I さんとおれは同じアパートに暮らしていた。
あることをきっかけに I さんとおれは飲むようになった。
彼は、芸大を受験して落ちて絵を描いていた。
I さんのところにはいろんな人がやってきていた。
漫画家の卵、美大や音大の学生、会社に勤める女性、水商売の女、わけのわからない人、………。
一緒になって飲んでいると文学や美術や音楽の話、女の話、男の話、哲学や人生などを熱く語り、
おれの大学のようなものになっていた。
「のみたや」に、おれの高校の友人が建築設計事務所を辞めて働くようになった。
この友人のKは、大学に入るための勉強をするといって設計事務所を辞め、
会社の寮を出ておれのアパートに転がり込んできた。。
「のみたや」は、夜通し営業していた。
I さんがいて、Kがいて、おれが行き、龍彦もギターを持って来る。
おれたちの酒は、店の酒とは別に I さんがしてくれていた。
だから、おれたちはほとんど金を使わずに飲んでいた。
「のみたや」でのエピソードはたくさんある。
あのときが、おれの青春だったと思う。
「ラジオビタミン」が終了して始まった「すっぴん!」(NHKラジオ 8:00~11:50)、
月曜日から聴ける時間には聴いてきた。
正直な気持ちは“落胆”です。
私は以前から藤井彩子アナウンサーが好きだったんですが、
村上信夫の魅力には太刀打ちできませんね。
彼は、この3月でNHKを退社した。
このことをネットで知り、ショックでした。
私は彼が大好きです。
私より1つ年下ですができるならいつか飲みたいと思っていたのです。
でも、彼ならNHKを離れてもいい仕事をすることでしょう。
できるひとは前に進んで行きますね。
今日は、高橋源一郎だった。
藤井彩子アナウンサーは毎日です。
私は今日9時45分からの仕事なので9時に家を出た。
9時のニュースが終わってから、金曜日パーソナリティの高橋源一郎の紹介が始まった。
藤井彩子アナが質問し彼が話し始めた。
大学に8年間いて除籍になった。
その頃肉体労働で暮らしていた。
20代の最後の夜、深夜放送(オールナイトニッポン)を聴いていた。
誰の番組か忘れたが、中島みゆき・さだまさし・松山千春が話していた。
そのとき高橋源一郎は思ったそうだ。
おれと同じ世代のこの3人は、立派に日本で成功している。
それに比べておれはナンなんだ。
彼は、心の底で小説家になりたいと考えていた。
でも、自分にはまだむずかしいだろうと思っていた。
しかし、ラジオから聴こえてくる3人の声を聴いていて、このままではだめだと思い、
次の日から1日3枚原稿用紙に小説を書き始めたという。
書けなかったら二度と小説は書かないという決まりを作って。
昼間の仕事は肉体労働なので夜が眠たかったそうだ。
でも、肉体はその環境に慣れるという。
1日に3枚というノルマはきつかった。
肉体労働から帰ってきたら何もする気がしなかったそうだ。
しかし、1ヶ月もするとそれが普通になったらしい。
その話を聴いていて車を運転していた私は涙が流れてきてしかたなかった。
それこそおれは何をやってきたんだ、という想いです。
30代の前半まで私は小説を毎日書いていた。
でも30代の後半、仕事が忙しくなり書くことをやめた。
なんであのときに、小説を書くことをやめてしまったのか?
富士見市にいた頃は書いていた。
所沢市に引っ越してからは書かなくなった。
会社が傾き、転職を何度かした。
双子の息子たちを育てるために必死だった。
それなりの会社に入ったら責任ある仕事をまかされた。
日々仕事をこなすのに一所懸命に働いた。
残業代が出なくても毎日10時頃まで仕事をした。
あの頃の会社員はみな誰もやっていたことなんだろうな、と思う。
ところが45歳でバブルがはじけその会社が消滅した。
転職した会社も51歳で閉鎖になった。
なんとか双子の息子たちは大学を卒業させた。
今、それなりに仕事があり、つつましく軽井沢で暮らしている。
がんばらなくてはいけない。
これまでのことを四の五のいっていられない。
高橋源一郎の話を聴いていてそんなことを思った。
彼は29歳で生き方をかえた。
だめな私は、59歳で生き方をかえられるか。
いや、やらなくちゃいけない。
おれはこのまま死にたくはない。
バカなおれはわるあがきをして死のう。
昨日、私は駒場屋内プールに行った。
どっちかというとあまり積極的に行きたいとは思わなかった。
でも、「行かない」という気持ちはなかった。
自分の現在の健康のことを考えると何が何でも行かなければ、という気持ちだった。
それにやっぱり子どもの頃から憧れていた“泳ぐ”ということ、おぼえたかった。
これは魅力的だった。
プールに行くと、先週一緒にやったひとがいた。
私は挨拶をして、いろいろ話した。
彼も話したかったようでよかった。
時間になり始まったときに先生が私を見て、「お、来ていますね」という視線を送ってくれた。
会のメンバーもみなやさしく迎えてくれた。
午後1時半から会は始まる。
始まって40分ほど体操ストレッチをしていた。
これがけっこうハードです。
そして、プールの休憩時間になった。
みなさん休憩室で和気藹々と楽しそうだった。
私もなんとか続けられそうです。
水泳の練習で先生が、
「まだ2回目だからそんなにキレイではないが、いいですよ。
来週は息継ぎの練習をしましょう」といってくれた。
今日、4月4日は九想庵の誕生日です。
2001年の4月4日の深夜に生まれました。
ですからほんとうは4月5日です。
でも、私は、私がその日の終わりとして寝たときが、
1日の終わりと考えているので4月5日の午前3時でも4月4日です。
それまでパソコン通信でASAHIネットの「かしの木亭談話室」にUPした九想話と
過去に書いた小説とネット句会で投句した俳句を選んでそれぞれのページを作り、
九想庵というホームページを制作した。
その頃はブログというものはなく、ネットに載せるにはホームページという方法しかなかった。
まったく知識のない私にとってホームページを作るということはものすごいことでした。
去年の4月4日にも同じようなことを書いていた。
おそらくそれ以前にも同じようなことを書いていることでしょう。
それぐらい私にとって4月4日の九想庵の誕生日はうれしいです。
九想庵も明日から11年目です。
飽きっぽい私が10年以上続けているということに我ながら感心する。
しかし、現在小説と俳句のページはない。
更新出来ないので削除してしまいました。
復活させたいと考えているが、なかなか時間がありません。
日々、九想話を書くことで精一杯です。
今日、ひとりで九想庵の誕生日を祝いました。
粗末ですが焼き肉です。
昨日西友で、賞味期限が4月4日で630円のカルビが半額になっていた。
焼き肉の写真を女房に送ると、「豪華じゃない!」と返ってきた。
さぁ、明日から九想庵も11年目に入ります。
心をあらたにしてがんばります。
悩んだあげく結局、昨夜はライブで歌う曲名を書けなかった。
ほぼ決まっていたんですが、迷いがあった。
弾きやすいコードに転調しても、それでは声の高さが合わなかったり、とむずかしい。
カポタストを使えばいいのですが、それを5フレットなどでは使いたくない。
私の希望としてはカポタストは、3フレットぐらいまでなんです。
「もうひとつの土曜日」浜田省吾
「希望の轍」サザンオールスターズ
これが私の選んだ2曲です。
「もうひとつの土曜日」は、歌本に載っていたコードは「F」です。
私が音楽の授業で勉強した名前でいえば「ヘ長調」。
これだと私の声が合わなかった。
それで「C」に転調した。
「ハ長調」ですね。
これだと私の声の高さがちょうどよく、
コードも「C Em Am Em C Em F G」と続き、押さえやすくなった。
問題は「希望の轍」だった。
本に載っていたコードは「D」だった。
「ニ長調」かな?
これを「ハ長調」に転調したが、声の高さが合わない。
それでカポタストをつけて何カ所か移動して歌ってみたりした。
しっくりこない。
試行錯誤の結果、「G」に転調してみた。
「ト長調」です。
これだとカポタストをつけなくても声が出た。
「G D Em Bm7 C E7 A D」と比較的押さえやすい。
やっと10時頃この2曲をやろうと決めた。
それでも迷った。
何度もなんどもギターを弾いて歌ってみた。
つまんない声でギターも下手くそな私なんだから、人前で歌わなければ悩まなくていい。
やめてしまえば気が楽になる。
それにもう今年の5月で60歳、いいかげん歳を考えろよな、と声が飛んできそうです。
でも、こんな私ですが、人前で歌うと気分よくなれる。
あの気持ちを味わいたい。
パンカーラにいらっしゃるみなさま、申し訳ありません。
これから21日の本番まで出来るだけ練習しますので、見逃して下さい。
パンカーラのマスターにこの2曲をメールしました。
北軽井沢のレストラン「パンカーラ」で開催される「春ライブ(仮)」で歌う曲を考えた。
いつも私は、ライブの3・4日前にやる曲をパンカーラのマスターに連絡してきた。
これはマスターにとっては迷惑なことだろう。
プログラムを作らなくてはいけない。
つくづく反省して今回は早く、歌う曲を連絡しようと思ったのです。
これまでの私は、歌う曲の歌詞とギターのコードはネットで探した。
ネットで調べるとそれなりにヒットした曲だったらだいたいはある。
たとえばこんなサイトがあるのです。
> 11556曲の中からギターコード付で検索できます!
ここだったら私が歌いたい曲はほとんどあります。
ここで歌いたい曲を探して、歌詞とコードを書くのです。
ここは著作権の関係でプリント出来ません。
今回は、歌の本を買った。
「オールヒット曲ニューミュージック&J-POP2012歌詞&楽譜372曲」(自由国民社)です。
この本に載っている曲を先週からギターを弾き歌っていた。
懐かしい曲が沢山あります。
いろいろ歌った。
ハナミズキ(一青窈)・青春の影・心の旅(チューリップ)・時の過ぎゆくままに(沢田研二)・
いとしのエリー・チャコの海岸物語・愛の言霊・真夏の果実・希望の轍(サザンオールスターズ)・
酒と泪と男と女(河島永五)・眠れぬ夜(オフコース)・少年時代(井上陽水)・
なごり雪(イルカ)・恋の予感・ワインレッドの心(安全地帯)・もうひとつの土曜日(浜田省吾)・
涙のリクエスト(チェッカーズ)・壊れかけのラジオ(徳永英明)etc。
( )→その歌を歌った人・グループです。
私は、正直なところ、武士の生き方にあまりなじめません。
あの「切腹」という責任のとりかた(とらされかた)が好きじゃありません。
でも、戸田秋谷(しゅうこく)というひとは…、最後のことは書かないほうがいいですね。
秋谷は七年前、前藩主の側室お由の方と不義密通を犯したということで、
家譜編纂と十年後の切腹を命じられていた。
このお由の方との不義密通というものは…、でも、秋谷は側室の…、
だめだ、これから読むひとのために書いてはいけない。
登場人物の中で私は、百姓のせがれの源吉が好きです。
幼い年齢でこんなりっぱに生きられるかな?とは疑問に思ったが。
やはりこれから読むひとのために細かいことを書いてはまずいと思う。
ただ私としてはこれだけは書きたい。
人間、筋を通してまっすぐに生きれば、その生き方は美しい。
私の一番好きな作家は、山本周五郎です。
藤沢周平も大好きです。
葉室麟は、藤沢周平を読んで時代小説を書き始めたという。
葉室麟は、私より1歳年上です。
なにも書いてない(書けない)私は…。