広島に原爆が投下された8月8日の夜、ソ連が46年4月までの日ソ中立条約を破棄し宣戦布告してきた。そのすぐ後に、日本各地に米軍機から撒かれた伝単(裏表)。
昭和20年4月のヤルタ会談では、ソ連の対日参戦をルーズベルトは促し、満州国の鉄道・港湾の権益、千島、樺太南部の領有条件を飲んだ。しかし、5月8日ドイツ降伏前後から米ソの軋轢は高まる。7月に原爆の実験に成功した米(トルーマン)は広島・長崎に原爆を投下、日本に対する米の優先を目論む。ソ連は予定を早めて8日夜に通告、参戦となった。
このビラのように、日本をはさんでソ連兵と米兵が握手するというような状況ではなかったのである、が。
5月8日にはドイツも無条件降伏し、敗戦濃厚で終結折衝に動いてはいたが、6月23日には沖縄戦の最高司令官自決、8万の将兵、12万を超える県民の死亡という状況で即終結(敗戦)できなかった責任は天皇以下我が国のリーダーにある。7月26日に米、英、中華民国の名においてポツダム宣言が通告され、それでも天皇君主制存続にこだわった結果、ソ連へのけん制でもある原爆投下となってしまった、と考える。(ポツダム宣言には天皇制について書かれていない。「日本軍の無条件降伏」とある。軍の最高統率(統帥)は天皇ではあるが)・・・などと、終戦記念日に思う。