父の詫び状 (文春文庫 む 1-1)向田 邦子文藝春秋このアイテムの詳細を見る |
言わずと知れた向田邦子の名エッセイ集。
著者の人生を振り返っての、些細なそれでいて多彩な出来事が綴られていきます。
本当にその多彩さには驚く。
著者の記憶力と表現力、感受性の豊かさには感嘆するばかりです。
そして、これは明らかに家族の幸福な思い出を綴ったものでもある。
関川夏央がこのエッセイ集をモチーフの一番手として「家族の昭和」を書こうとしたことに深く共感することができます。
数ある魅力的なエピソードの中で個人的にもっとも印象的だったのは「お辞儀」。
年老いて心臓を病み入院した母を姉弟4人が見舞いに訪れた見送り際、エレベーターの扉が閉まる向こうで深々とお辞儀をする母。
その姿を笑いながら涙ぐむ姉弟たち。
家族の深い深い絆を感じないわけにはいきません。
向田家の父は貧しい出自から叩き上げで大保険会社の支店長を務めるまでになった人物。
向田家はけっして金持ちではないが貧乏でもない。
父の厳格さ横暴ぶりには苦労させられるが、けっしてギスギスした雰囲気の家庭ではない。
そういう家庭環境の中で著者の魅力的なパーソナリティが育まれたことは想像するに難くありません。
著者は自身を評して「行き遅れ」「甲斐性なし」「オールドミス」「テレビのシナリオ書きなどというやくざな商売」などと卑下する言葉が連発されます。
また、鼻が低くて丸いことなどを取り上げ、器量もいまいちだと云う。
しかも食べ物の大きい小さいがついつい気になってしまうような貧乏臭さが抜けないことなども書き連ねます。
その一方で、少女時代から勘が鋭く目立つ子供であり、この時代の女性としてはかなりアクティブであったとも思われ、また、その器量(写真をみれば本人の卑下に反して明らかに美人である)と利発さから特に年上の大人の男性から好意をもたれることが多かったことをほのめかすようなエピソードも散見されるなど、その庶民性と才女ぶりという両面を持ち合わせていることが、著者の魅力なのだと思う。
この本には、飛行機事故を心配する場面が2か所も出てくる。
一か所は母と妹が海外旅行に旅立つ飛行機を見送りながら「どうか落ちませんように」と祈る場面。
もう一か所は著者自身が友人とペルーに旅行し、アマゾン行きの飛行機に乗る場面。
飛行機事故に遭う可能性が限りなく低いことは広く知られていることなのにもかかわらず、このような場面を描いていた著者が、これを書いた数年後に飛行機事故で生涯を閉じることになった皮肉。
著者の勘の鋭さがこんなところにも不幸にして現れてしまったのかも…などと今となってはふと考えてしまいます。