世界文化遺産にも指定されている国宝姫路城は、何度訪れても見飽きることはなく、訪れるたびに新しい発見があると言われています。
その姫路城は、白漆喰総塗籠(しろしっくいぬりそうぬりごめ)造りの鮮やかな白の城壁や5層7階の大天守と東、西、乾の小天守が渡櫓で連結された連立式天守が特徴です。
「姫路城大天守」
姫路城は2009年6月27日から2015年3月18日まで約6年に亘って「大天守保存修理工事」が行われ、今年3月に竣工しました。
竣工後は、その素晴らしい世界遺産を一目見ようと、内外の観光客が連日押し寄せています。
この姫路城の大天守は、慶長14年(1609年)に建築されたもので、400年以上が経過した現在でもその美しい姿を残しています。
・菱の門手前から撮影した、右から大天守、西小天守、乾小天守です。
「姥ケ石」
石垣の上方に欠けた石臼(金網の中)が間詰め石として積まれていますが、これが「姥(うば)ケ石」と呼ばれている石です。
ここに掲示されている説明では、
羽柴秀吉は姫路城を築く時、石集めに苦労していました。城下で餅を焼いて売っていた貧しいお婆さんがそのことを聞き、使っていた石臼を寄付しました。秀吉は喜んで石臼を石垣に使いました。この評判はすぐに広まり国中からたくさんの石が寄付され、築城工事は急速に進み立派に完成しました。
「姥ケ石」が積まれている石垣は、池田輝政が築いたものなので、この話は伝説です。
その他にも「姥ケ石」には、お婆さん(姥)は妊娠しない(孕(はら)まない)ことにかけて、石垣も孕まないようにとのお呪い(おまじない)で積まれたという説もあります。
と書かれていました。
「三の丸広場」
江戸時代、三の丸西側には御殿や屋敷があり本城(御居城)と呼ばれ、東側には向屋敷と庭園があり本多氏以降の政務の中心の場でした。
「姫路城の門」
姫路城にはその昔、いろは順に名づけられた門が15、その他の門が69、あわせて84門ありましたが、 現在は、いろは付きが13、その他の門が8、合計21門残っています。
姫路城の天守に向かう最後の備えがこの「水の門」です。
敵軍が攻めてきた場合、この門は右斜め後ろに位置しているため死角になります。また門の向こう側がくだっていくようにつくられているので、このルートが天守に通じるとは思わないような造りとなっています。
・水三門です。
・水三門の手前から撮影した石落としです。
・水三門の内側より撮影した大天守の隅棟です。
(参考)「千姫物語」
千姫は、徳川家康の子・秀忠と織田信長のめい・江(ごう)の間に生まれ、母・江と同じく波乱に満ちた人生を送りました。
その生涯はさまざまな伝説に彩られています。
徳川家康の孫娘・千姫は、7歳で大坂城の豊臣秀頼のもとへ輿入れしました。しかし秀吉死去の後、大坂夏の陣で夫・秀頼は自害し、豊臣家は滅亡します。
千姫は燃え盛る炎の中から助け出され、江戸城へ帰る途中、警護に当たっていた本多忠政の息子・忠刻(ただとき)と再婚します。千姫20歳、忠刻21歳でした。
千姫の化粧料(持参金)10万石で、姫路城三の丸には武蔵野御殿と呼ばれる千姫の屋敷が建てられたと言われ、城内の池泉回遊式庭園や高砂沖に船を浮かべて仲よく連歌を楽しんだとの話も伝わっています。
勝姫と幸千代の一男一女にも恵まれ「千姫は、夫・忠刻と暮らした10年間の姫路城での生活が生涯で一番幸せだった」と今でも語られています。
しかし、長男・幸千代が3歳の時病で亡くなり、5年後には夫・忠刻も31歳の若さで病に倒れます。
江戸へ帰った千姫は髪を下ろして「天樹院と号し、夫や息子を想いながら竹橋御殿で余生を送り、70歳の生涯を閉じました。