昨日、大坂夏の陣の緒戦となった樫井の合戦をご紹介しましたが、この合戦で大坂方の先鋒をつとめたのが塙(ばん)団右衛門です。
塙団右衛門は尾張国羽栗の人で、加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功を挙げ、その名を知られましたが、関ヶ原の戦い(1600年)以降、浪人して僧となり、鉄牛(てつぎゅう))と称しました。
団右衛門は大坂冬の陣では豊臣方に属し、大坂城に入城します。
慶長20年4月(1615年)に夏の陣が起こると、豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主・浅野長晟(ながあきら)の軍と戦うべく泉州に進みました。
塙団右衛門は先鋒隊を率いて4月29日早朝、熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入しました。
安松、岡本、樫井で激闘が展開されましたが、大坂方は敗れ、団右衛門はこの地で討ち死にしました。時に48歳と言われています。
団右衛門を討ったのは上田宗箇(そうこ)、亀田大隅、或いは八木新左衛門などの説がありますが、一定していないそうです。
「塙団右衛門直之の墓」
石柵に囲まれた中に、高さ約2メートルの五輪石塔が安置されています。
この墓碑は、紀州藩士の小笠原作右衛門が、塙団右衛門直之の17年回忌(1632年4月)に建立したとされています。
塙団右衛門直之は、大坂冬の陣が始まるや否や大坂側に馳せ参じ、大野治房の組下に加わりました。
大坂冬の陣では「夜討ちの塙団右衛門」の勇名を轟かせていましたが、夏の陣における樫井合戦で戦功を焦った余りに、一命を失うことになったのです。
・塙団右衛門直之の墓です。合戦場跡の石碑から200~300メートル北にあります。
「塙団右衛門直之五輪塔」
慶長20年「1615年)、豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討ち死にした塙団右衛門直之の五輪塔です。
この五輪塔は寛永8年(1631年)に紀州の士小笠原作右衛門が造立し、石灯籠は八木新左衛門の孫が奉納したそうです。
250回忌(1868年)には団右衛門の子孫の櫻井氏が補修し、周囲を整え、当地の観音寺に位牌を納めました。
以後、当地の人たちにより守られているということです。
・塙団右衛門直之五輪塔です。
「五輪塔」
五輪塔とは、五大にかたどった五つの部分からなる塔で、構成は下から、地輪は方、水輪は球、火輪は三角、風輪は半球、空輪は宝珠形となっています。
平安時代中期から供養塔、墓塔として用いられており、その多くは石造りですが、金銅・木・泥土などでも造られているそうです。
なお、広辞苑には「五大」とは、地・水・火・風・空の五つを言います。一切の物質に偏在してそれを構成する元とみて「大」という。と説明しています。