らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

樫井古戦場跡

2015-10-21 | 地元紹介

今年は大坂夏の陣から400年です。
大阪夏の陣と言えば、前年の冬の陣から続く徳川家康の策略の仕上げの合戦です。
この二つの戦は、夏の陣の天王寺・岡山の合戦を経て終局となり、豊臣家が滅亡しますが、その緒戦となったのは泉州樫井の合戦であることは余り知られていません。
そこで今日は、地元泉州の「樫井の合戦」についてご紹介します。

大坂夏の陣の緒戦となったのは、冒頭に書いたように、泉佐野市樫井地区であり、樫井川原やその周辺が合戦場となりました。
現在、当時の面影を残すものは、樫井川沿いの明治橋近くに「樫井古戦場跡」の石碑が残されているだけです。

「樫井古戦場跡」
泉佐野市樫井地区の樫井川原及びその周辺は大坂夏の陣の合戦場の激戦の舞台でした。
大阪冬の陣で大坂城の外堀を埋められた大坂方は、城外に打って出る戦術を取りました。
ここ樫井の合戦は、1615年(慶長20年)4月29日未明、大野主馬を主将とした豊臣方2万余の軍勢が、浅野長晟(あさのながあきら)率いる紀州浅野勢5千の兵に挑み惨敗した戦いです。
大坂夏の陣の勝敗をも大きく左右したというのがこの「樫井の合戦」です。

この「樫井の合戦」の概略は後述していますのでご参照ください。

・現在は「史跡 大坂夏の陣・樫井古戦場跡」の石碑が僅かに残るだけです。


「樫井の合戦」の勝敗の分かれ目は、数の上で劣勢な徳川方紀州軍が、大坂軍の大群が流れ込めないように地の利を生かした布陣を採ったこと、一方の寄せ集めの大坂軍は、功名を得ようと先陣争いして我先に飛び出そうとしたことなどが、その要因と言われています。
 
即ち、大坂方先陣の先鋒塙(ばん)団右衛門直之と岡部大学が戦功を急いで飛び出して戦った結果敗退し、塙直之の手に加わっていた泉南の土豪淡輪六郎兵衛も格闘の末戦死したことで、大坂方の士気に大きくひびき、その後10日も経たない5月7日に堅固を誇っていた大坂城は落城したのです。
この大坂夏の陣の前哨戦となった樫井の合戦の敗北が豊臣を滅亡に追いやることになったということです。

・石碑が建っているすぐ横には樫井川が流れています。当時、この川原でも激戦が繰り広げられた事と思います。


「樫井の合戦の概略」(碑文より)
大坂夏の陣の激戦の一つでもある樫井合戦は、元和元年(1615年)4月29日、ここ樫井の地で展開されました。
冬の陣の和議の後、外濠を埋められた大阪方は、このたび先手を取って出陣し、泉州へは大野主馬を主将として2万余の大軍を差し向け、徳川方の和歌山城主浅野長晟(ながあきら)の軍勢5千余を押さえようと図りました。
前日の28日、浅野方の先陣は佐野の市場(地名)へ到着、大坂方は岸和田を越えて進撃を続け、翌日、両軍の衝突はもやは避けられない状態となりました。

数的に劣勢な浅野方の諸将は、軍議の結果、軍を市場から安松、樫井に移しました
大軍を迎え撃つには、市場は、東は野畑が広い上、山遠く、西は海で浜辺は広く、馬の駆け引きも自由なところであることから不利、それに比べて安松、樫井は、東は蟻通しの松原、西には樫井の松原が海辺まで続き、中間には八丁縄手、その周囲が沼田のため、豊臣方の大軍は動かし難き地形で、小勢の浅野方は有利だと判断しました。

一方、大坂方は、ここで取り返しのつかない失敗を演じた主将大野主馬は慎重な作戦を立てていましたが、先手の大将塙(ばん)団右衛門と岡部大学が先陣争いをして小勢で突出してしまいました。
29日未明、塙、岡部の両将を迎え討った浅野方の勇将・亀田大隅は安松を焼き払い、池の堤に伏せた鉄砲隊で大坂方を悩ましながら、樫井まで引きさがり、ここで決戦を挑み、壮烈な死闘が街道筋や樫井川原で繰り広げられました。

一団となって戦う浅野方に対し、ばらばらの大坂方は、先ず岡部が敗走し、塙は樫井で孤立のまま苦戦を続け、遂に矢を股に受け、歩いているところを討ち取られてしまいます。
かくて樫井合戦は大坂方の敗北で幕を閉じますが、この大坂夏の陣の緒戦が大坂方の士気に大きく響き、この後10日も経たない5月7日に遂に堅固を誇った大坂城も落城して、豊臣氏は滅亡したのです。