らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

南紀の旅(その6)「那智大社」

2015-10-13 | 旅行

日本一短い川を見た後、那智大社にお参りしました。

熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来より多くの人々の信仰を集めている神社です。
熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山の一つとなっています。

「那智大社・一の鳥居」
参道の途中に一の鳥居があり、473段の石段を登り切ると二の鳥居をくぐって境内に到着します。
境内は標高約500mに位置し、6棟からなる社殿が建ち、夫須美神(ふすみのかみ)を御主神として、それぞれに神様をお祀りしています。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)とも言われる夫須美神は、万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、縁結びの神様また、諸願成就の神としても崇められています。



「手水舎」
熊野那智大社に通じる「一の鳥居」を過ぎると、立派な手水舎(てみずしゃ)があります。
ここで身を清めてから熊野那智大社、那智山青岸渡寺に参拝します。



「那智大社拝殿」
社伝によれば、神武天皇が熊野灘から那智の海岸に上陸した際、那智山に光が輝くのを見て、那智の大滝をさぐりあて、神として祭り、八咫烏の案内で山々を越え大和に入ったとあります。
社殿は、仁徳天皇5年(317年)に現在の位置に創建され、大滝を「別宮飛瀧大神」とし、新しい社殿には夫須美神(ふすみのかみ)を祀ったのが「熊野那智大社」の始まりとされています。
その後、仏教が伝来し、役小角(えんのおづの)を始租とする修験道とともに熊野権現として崇められ、上皇、女院、武将や庶民の崇拝が増え、「蟻の熊野詣」と称されるようになりました。

・那智大社の拝殿です。


「八社殿」
ここに掲げられている説明は次のように書かれています。
熊野那智大社は熊野三山の一つに数えられ中世以降は日本第一大霊験所・根本熊野三所権現として、全国的に信仰された古社である。
社殿は東西横一列に配された第一殿から第五殿と、第五殿の正南方に並ぶ第六殿・御縣彦社からなる。各社殿は瑞垣で仕切られており、各社殿の正面には鈴門が開かれている。
第一殿から第六殿までが嘉永4年から7年(1854年)の建立、御縣彦社は慶應3年(1867年)の建立である。
社殿はその規模が大きく良質で、彫刻を殆ど用いないなど、配置や形式に特徴があり、全国の神社建築に影響を与えた熊野三山の社殿形式を伝えるものとして、我が国の神社建築史上貴重である。鈴門及び瑞垣は境内の景観を構成する上で重要である。

・左側のお社は御県彦社です。
 京都の下鴨神社の御祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祭られています。
 賀茂建角身命は神武天皇が熊野に上陸した際に八咫烏(やたがらす)となって導いたそうです。


「那智の樟(くす)」
ここに掲げられているの説明によれば、この樟は樹齢約800年と推定され、樹高は27m、幹回り約8.5m、枝張るは南北25メートルもあります。
県下でも珍しい樟の大樹で、根幹部は空洞化しています。
熊野三山造営の勅使として参った平重盛の手植えの樟と伝えられており、天然記念物に指定されています。



「樟霊社胎内くぐり」
この老樟は古来樟の精にあやかって樟霊社とし、又、無病息災を祈り、長寿を願って多くの人々に崇められています。
根幹部の空洞を通り抜ける「胎内くぐり」には備え付けの「護摩木」に願意・氏名を記入し、これを奉納して胎内に入り、出口の護摩社に納めます。
この護摩木は毎月18日の権現講祭に焚き上げ祈願するそうです。