昨日は急遽、星の話題を取り上げましたが、今日から「南紀の旅」シリーズに戻ります。
今回の南紀の旅は、潮岬から紀伊大島を経て国道42号線を那智まで行き、熊野三山の一つ熊野那智神社にお参りするコースです。
・これが今回のルートです。
「潮岬」
潮岬は台風情報でおなじみの岬で、紀伊半島の南部、和歌山県の串本町にあります。
位置は北緯33度25分58秒で本州最南端となる岬です。(正確には先端にあたる太平洋に突き出たクレ崎が本州最南端です。)
岬には、かつて海軍の望楼が築かれていた望楼の芝生や、360度の大パノラマが楽しめる潮岬観光タワー、そして少し離れた所に、「あなたが選ぶ日本の灯台50選」に選ばれた、明治6年(1873年)9月15日に本点灯を開始した、高さは22.51mの潮岬灯台があります。
・潮岬は本州最南端の地です。
「潮岬灯台」
潮岬灯台は幕末の1866年(慶応2年)5月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ「改税条約」(別名「江戸条約」)によって建設することを約束した8ヶ所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の一つで、日本の「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが設計・指導して1869年(明治2年)年4月に樫野埼灯台と共に着工しました。
翌1870年(明治3年)6月10日に完成し、仮点灯で業務を開始しました。
当初の灯台は八角形の木造で、我か国最初の洋式木造灯台だったようです。
・潮岬灯台です(ネットより)
本州最南端の潮岬から眺めた太平洋です。
水平線は緩やかな曲線を描いており、地球が丸いことが実感できます。
潮岬から紀伊大島に渡り、トルコ記念館を見学しました。
今回の私の訪問目的のメインはここを訪れることでした。
そのきっかけは6年前にトルコ旅行をした時に「エルトゥールル号遭難」事故の顛末を聞いたことです。
「トルコ記念館前の日赤モニュメント」
モニュメントには次のように説明されています。
明治23年(1890年)9月16日、トルコ皇帝から明治天皇への親書と勲章を贈呈のため来日したトルコ軍艦エルトゥールル号が、帰路の途中暴風雨のためこの樫野崎で座礁沈没し、特派大使船長ら乗組員587名が遭難する大惨事となった。
この時、串本町大島の皆さんによる懸命の救助活動により69名が救出され、神戸に移送されることになった。日本赤十字社は急遽救護のため医師、看護婦を派遣して、言語・習慣の違いなどの困難に遭いながらも神戸で治療に当たり、10月10日には負傷者全員をトルコへ送り出すことができるようになった。
この救護は日本赤十字社の平時での最初の国際救助活動と言われている。
この活動を後世に伝えるためここに記念碑を建立する。
なお、「エルトゥールル号遭難」の概略は、2009年5月7日の弊ブログに書いているのでご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/raishou0213/e/2de5c64a63ae65b923e532a198ac23a3
・トルコ記念館前の日赤モニュメントです。
「トルコ記念館」
トルコ国との友好の証としてトルコ軍艦遭難慰霊碑の近くに建設された記念館です。
館内には遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されており、遭難事故当時の様子を知ることができます。
記念館は、オスマン皇帝の特使を乗せて日本に派遣されたエルトゥールル号が、帰国の途にあった1890年(明治23年)に、樫野埼灯台近くで座礁し、沈没した遭難事故に由来します。
犠牲者587名という大惨事でしたが、地元の大島村(現串本町)の人々はトルコ人の遭難者に温かい対応を行ったことが、日本とトルコの友好の始まりとして有名なエピソードになっています。
トルコ記念館はこの出来事を記念して1974年(昭和49年)12月に遭難現場付近の紀伊大島に建設されたものです。
2階展望台からはエルトゥールル号が座礁した地点を見ることができます。
館内は撮影禁止なので展示物などのご紹介ができません。
・トルコ記念館です。壁にはトルコブルーを基調としたイズニックタイルが貼られています。
「エルトゥールル号座礁現場」
手前中央の大きな岩の沖に海面から点々と覗く5つの小さな岩礁が並んでいますが、5つ目の岩礁の沖が遭難現場なのだそうです。
・エルトゥールル号座礁現場です。