らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

蟻通神社

2015-10-23 | 地元紹介

昨日ご紹介した塙(ばん)団右衛門の五輪塔の場所から北へ200~300メートルの所に「蟻通神社」が鎮座していますのでご紹介します。

「蟻通神社」
蟻通神社は、大阪府泉佐野市長滝に鎮座する氏神鎮守社で、主な祭神は、大国主命・蟻通明神で、国土開発・五穀豊穣・智恵・孝行の神として氏子崇敬者の篤い信仰を寄せています。
元の境内は、熊野街道(紀州街道)沿いにあり、広大な社域、長い参道に松並木が続く泉州の古社でしたが、第二次世界大戦下の昭和16年(1941年)佐野飛行場建設のため、現在地に移転しました。



「拝殿」
蟻通神社は長滝中の番にあり、『紀貫之家集』『枕草子』などにも名前が見られる古社で、ここに掲げられている説明には次のように書かれています。
この神社は弥生中期の開花天皇の紀元93年に創始されました。稲作りが始まり、米が貴重な食物で五穀豊穣、長寿の神として祀られました。
5世紀に朝鮮・新羅より優秀な技術集団が渡来し、今日の条理制農地を造り、国土開発の神として崇められる。平安時代、摂政藤原道長の領地となる。
紀貫之が京都へ上る途中、馬が急に病み、「かきくもり あやめも知らぬ大空に ありとほしおば 思ふべしやは」と歌を奉ると馬の病が治った。
世阿弥がこの歌を基に謡曲「蟻通」を作り、和歌謡曲の神として崇拝された。
清少納言は枕草子で七曲がりの法螺貝に赤糸を通せとの難問を父の教えによって解決し、知恵と親孝行の神として崇拝された。
熊野信仰が盛んになり、上皇・貴族が行列をして神社前を通り、蟻の熊野詣と呼ばれた。
戦国時代、根来寺の領地となり日根郡の中心神社となる。豊臣秀吉の根来寺攻めで焼失す。
万治3年、岸和田藩主岡部宣勝が社殿能舞台宗福院を造営す。
昭和16年、境内が飛行場となり現地に移転す。



「舞殿」
拝殿前方に建つ、5.8メートル四方の方一間、吹放し形式の舞殿で、入母屋造妻入り、銅板葺です。
床高はやや低めとし、棹縁(さおぶち)天井で、境内景観の中核をなす大型の舞殿です。



「紀貫之大人冠乃渕」
この由来は、紀貫之が蟻通神社の社前を通りかかったところ、蟻通明神の逆鱗に触れ、突然馬が病に倒れました。
その時に貫之が過って、冠を路傍の渕の中へ落としました。
冠を落とした池なので、「冠之渕」と呼ばれています。

・紀貫之が落馬時に冠を落としたとされる「冠之渕」(かんむりのふち)の石碑です。


「仏足石」
中世長滝の荘に創建された禅興寺より移されたと伝えられ、明治100年(昭和43年)記念として再建されました。
古来より足に関する病を持つ人が参詣し、回復を祈ると云う伝承があるそうです。

・境内にある仏足石です。


「紀貫之の故事伝承」
平安時代の歌人紀貫之は、紀州からの帰途、馬上のまま蟻通神社の前を通り過ぎようとします。するとたちまち辺りは曇り雨が降り、乗っていた馬が、病に倒れます。
そこへ通りかかった里人(宮守)の進言に従い、傍らの渕で手を清め、その神名を尋ねたところ「ありとほしの神」と言ったのを聞いて歌を詠んで献上します。

その歌は、「かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思ふべしやは」です。 紀貫之が奉能した和歌(貫之集より)
(意訳)
  一面に曇って見分けもつかない大空に星のあるのも分からないように、ここに蟻通明神のお社があると思い付くでしょうか。
  こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない。という意味だそうです。

その歌の功徳で神霊を慰め、霊験があらわれたため、馬の病が回復し、再び京へと旅立ちます。
実は里人(宮守)は、蟻通明神の神霊だったという伝承です。