らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

大鳥神社

2015-10-27 | 地元紹介

先日、堺の大鳥大社を参拝してきました。
ここは日本武尊(やまとたけるのみこと)と大鳥連祖神(おおとりのむらじのみおやのかみ)を御祭神としている神社です。
日本武尊と言えば、白鳥伝説でご存知の方も多いと思います。
今日はその伝説の地の一つと言われている大鳥大社をご紹介します。

「大鳥大社」
大鳥大社は和泉国一の宮にあたる延喜式内社です。
本殿は神社建築史上、大社造りに次ぐ古い様式で、大鳥造りと呼ばれている切り妻造りの妻入り神社建築です。
現在の本殿は明治38年に焼失した後、同42年に造営されたものだそうです。



「日本武尊・白鳥伝説」
日本武尊(やまとたけるのみこと)は第12代景行天皇の子として誕生しました。
幼名を小碓命(おうすのみこと)といい,兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われています。
武勇に秀でていたのですが、気性が激しく、兄を殺害してしまったため父からは疎(うと)んじられていました。

ある時、日本武尊は父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲(くまそ)・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってきましたが、休む暇もなく天皇から東国の蝦夷を征討せよと命じられます。
その命令を受けた日本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)に自分の不遇を訴えています。

幾多の苦難のすえ、東国を征討しますが、その帰る道中、伊吹山の神との戦いに破れます。
傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとしますが、能褒野(のぼの:亀山市)に辿り着いた時には、一歩も前に進めずついに力尽きてしまいます。
体を横たえた日本武尊は大和への思いを、次のように詠んでいます。
   『大和は 国のまほろば たたなづく 青垣(あおかき) 山こもれる 大和し美(うるは)し』 
   意訳:大和の国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々。その山々に囲まれた大和は美しい。

能褒野(のぼの)に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、琴弾原(ことひきのはら:御所市)を経て、旧市邑(ふるいちむら:現羽曳野市)に降り立ち、その後、何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えています。

大鳥大社の社伝によれば、天高く飛び立った白鳥はこの地にやってきたため、社を立てて祀ったとされており、
これが大鳥神社の始まりだということです。
神域の森は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれており、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと伝えられています。

・日本武尊の銅像です。


「拝殿」
本殿は大鳥造りで、「切妻造・妻入社殿」という出雲大社造に次ぐ古形式を保っているそうです。
拝殿は昭和30年に檜皮葺の屋根をふき替えたようです。



「平清盛歌碑」
平清盛・重盛親子は平治元年(1159年)熊野参詣の途中、都で兵乱が起きたとの急報を聞き、都への帰途、大鳥神社に参拝して、戦勝を祈願しました。
この時、「かひこぞよ かへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神」と詠み、この和歌一首と神馬一頭を献じました。
清盛が詠んだ和歌はこれだけであり、大変貴重な一首だそうです。

・この歌碑は明治時代の著名な文人画家で、大鳥大社宮司・富岡鉄斎の筆により建てられた自然石の碑です。


「与謝野晶子歌碑」
平成18年、与謝野晶子倶楽部設立10周年記念に建立され、晶子の誕生日にあたる12月7日に除幕式が行われたそうです。
碑には、
「和泉なる わがうぶすなの 大鳥の 宮居の杉の 青き一村」の和歌が詠まれています。
この歌は、幼い頃の晶子が親しんだ大鳥大社を詠んだものだそうです。



「大鳥美波比神社(おおとりみはひ)」
大鳥美波比神社は、大鳥5社の一社で大鳥大社の境内にある摂社です。1873年(明治6年)の神仏分離令で破壊された神鳳寺跡に鎮座しています。
神鳳寺は謎の多い古代寺ですが、現在、大鳥美波比神社がある場所を含め、その南北が跡地と考えられているそうです。