らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

スイートピーの花

2010-05-11 | 
今日は私の畑に咲いているスイートピーの花をご紹介します。
この花は、昨年暮れに菜園仲間から苗をもらい植えたもので、連休明けから咲き始めました。

スイートピーはマメ科レンリソウ属の一年草の植物で、和名ではジャコウエンドウ(麝香エンドウ)やカオリエンドウ(香りエンドウ)、ジャコウレンリソウ(麝香連理草)などとよばれています。
原産地はイタリアシチリ島で1695年にクパーニ神父によって発見されたそうです。
当初は色も淡紫色だけでしたが、その後、イギリスを中心に改良が進み、今では、覆輪や絞りの品種まで現われ、園芸品種も千種類以上あるそうです。
日本には改良種が江戸時代末期に渡来したといわれています。

・つる性植物なので、ひげを巻きつけて伸びるため網で囲って栽培しています。


スイートピーとは英名で「香りの良い豆」の意味であり、その名の通り、花も草姿もエンドウに似ており花には芳香があります。
しかし、有毒植物であり、豆と莢にアミノプロピオニトリルという成分が多く含まれているそうです。
多食すれば頚椎麻痺を引き起こし、歩行などに影響が出ることがあるといわれています。食べないように注意してください。

・マメ科の植物なので、エンドウやインゲンなどの豆類の花と形は良く似ています。


粗い毛を持っている茎は2m以上にもなり、細い巻きひげを絡ませて伸びていきます。

・茎からはこのように巻きひげが出てきます。


花は蝶形で、羽状の葉の脇から出た長い花柄に1~4個花をつけます。

・横から見ると蝶が羽を広げているように見え、とても可愛い花です。


花径は約5㎝、花色は赤、ピンク、紅薄紫、青、白、などと豊富にあるようです。
松田聖子が歌った「赤いスイートピー」がヒットした1982年頃には、赤色の花をつけるスイートピーは存在していなかったそうです。その後、品種改良によって赤色のスイートピーが誕生したと言われています。

・我が家の花は殆どがピンクですが、赤い花も少し混じっています。


・開花直前のスイートピーです。


「花言葉」 「門出」 「思い出」 「離別」、
「誕生花」 2月15日、3月15日、3月20日、6月9日の誕生花となっているようです。




サクランボ栽培(その2)収穫

2010-05-10 | 家庭果樹

スーパーの果物売り場にサクランボが並ぶのはまだ少し早いと思いますが、我が家のサクランボは早くも真っ赤に実ってきました。
今日はこの熟したサクランボについてご紹介します。

我が家では、サクランボの木を鉢植えして3年目になります。昨年はこのサクランボの木に4~5輪の花が咲きましたが実はつきませんでした。
その分、昨年は短果枝がたくさん発生して木が充実し、今年開花する蕾の芽がたくさんついたように思います。

佐藤錦やナポレオンなど、サクランボの殆どの品種は自家受粉せず、異品種の花粉を必要としますが、私が栽培している「暖地(桜桃:おうとう)」という品種は、説明書きによれば、自家受粉をするので1本で結実するようです。
このため、家庭果樹に向いている品種と言われており、家庭果樹として人気があるようです。

・3月7日満開となったサクランボ「暖地(桜桃:おうとう)」の花です。


購入時の説明書きによると、この「暖地(桜桃:おうとう)」という品種は、小粒ですがたくさんの実を生らすと書かれていました。
また、佐藤錦やナポレオンなどより早く開花し、早く実るようです。

我が家のサクランボの木は鉢植えであり、3年目の小さな木ですが、それでも3月初旬には枝いっぱいに花が咲きました。
花後には小さな幼果がたくさん着果しましたが、成長するに従って自然落果が始まり、見る見る少なくなりました。
結局、最後まで残って熟したサクランボは15~16個くらいでした。

・これが赤く熟れた15~16個のサクランボです。


僅か15~16個のサクランボですが、先日孫が来た時に喜んで採ってくれました。
栽培して初めて結実したサクランボは、思っていたより数量が少ない結果となりましたが、それでも赤く熟れたサクランボが木にぶら下がっている眺めには満足感があります。

・熟すに従って表面につやが出て、とてもきれいなサクランボです。


サクランボの説明書きには、味は甘酸っぱく、ナポレオンや佐藤錦のような美味しさはないと書かれていましたが、初めて採れた我が家のサクランボは、小粒ですが酸味は少なく、甘味があって美味しく、孫が喜んで食べてくれました。

初めてのサクランボの収穫は説明書きと違ってわずか15~16個と少なかったのでその原因を調べてみました。
考えられることは、3月始めの開花時期に雨風に遭ったため、自家受粉ができなかったのではないかということです。
来年は軒下に移動するなどの雨対策をして、増収を確認したいと思っているところです。



「暖地(桜桃:おうとう)」の栽培管理
・開花時期  3月初旬~中旬頃
・収穫時期  5月頃(開花後2ヶ月くらいで収穫できるようです)
・剪   定  花芽が分化する前の5~6月頃に、春に伸びた枝を5~6芽残して切ります。こうすることで翌年の花芽がつく短果枝を発生させることができます。
         落葉後の休眠期の剪定は、枝を整える程度にとどめ、太い枝は切らないようにします。
・増やし方   挿し木または接木で増やします。
         3月に行う場合は、前年に伸びた花芽のない枝を挿します。
         6月の緑枝挿しは、今年伸びた緑の枝を10㎝に切り、葉を2枚残し、2~3時間水揚げをしてから指し床に斜めに挿します。
         用土は鹿沼土を使用します。



「母の日」の由来

2010-05-09 | 雑学
今日、5月の第2日曜日(9日)は「母の日」です。そこで今日は「母の日」について調べました。

「母の日」とは、日頃の母の苦労をいたわり、母への感謝を表す日で、日本やアメリカでは5月の第2日曜日に祝いますが、その起源は世界中で様々であり日付も異なるようです。

「母の日の由来」
「母の日」の由来は諸説あるようですが、アメリカでは、ヴァージニア州に住むアンナ・ジャービスという人が「亡き母を追悼したい」との想いから、1907年5月12日、母が日曜学校の教師をしていたフィラデルフィアの教会で「記念会」をもち、白いカーネーションを贈ったのがその起源とされています。

「5月第2日曜日となった経緯」
アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、翌1908年5月10日に同教会に470人の生徒と母親たちが集まって最初の母の日を祝ったそうです。
この風習がアメリカの殆どの州に広まり、1914年、その時の大統領だったウィルソンが5月第2日曜日を「母の日」と制定したそうです。

「世界の母の日」
ところで、「母の日」は日本やアメリカ、中国、カナダ、オーストラリアなどの国では5月の第2日曜日となっていますが、世界中の国がこの日ではないようです。
例えば、スペイン、ハンガリー、ポルトガル、南アフリカなどの国では5月の第1日曜日であり、フランスでは5月の最後の日曜日となっているようです。
他にも、ノルウェーは2月第2日曜日、インドネシアは12月22日のように、1月、6月、7月、9月を除いた各月に、いずれかの国に「母の日」があるようです。

日本では1931年(昭和6年)に、大日本連合婦人会を結成したのを機に、昭和時代の皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日(地久節)を母の日としましたが、1937年(昭和12年)5月8日に第1回「森永母の日大会」が開催された後、1949年頃からアメリカの例に倣って5月の第2日曜日に行われるようになったそうです。

「母の日のプレゼントの由来」
母の死後2年経った1907年5月12日、娘のアンナは亡き母を偲んで、母が日曜学校の教師をしていたフィラデルフィアの教会で「記念会」をもち、白いカーネーションを贈ったこと。更に、翌年の5月10日に最初の母の日を祝ったとき、アンナは参加者全員に、母が好きであった「白いカーネーション」を手渡したことから、白いカーネーションが母の日のシンボルになったと言われています。
このようなことから母の日のプレゼントはカーネーションやバラなどの花が主流となっていますが、最近ではエプロンやパジャマなどの他に、母娘がお揃いで使えそうな食器なども人気が出てきているそうです。
なお、予算は2,000円から5,000円くらいが多いといわれています。




消費者トラブル(その10)家賃トラブル

2010-05-08 | 消費者問題
大阪府消費生活センターから関西消費者協会を通じて「家賃トラブル(追い出し屋被害)の注意喚起」のメルマガが届きました。
そこで今日は「消費者トラブル」シリーズ(その10)として、「家賃トラブル(追い出し屋被害)」についてご紹介します。

メルマガのタイトルは、”家賃トラブル(追い出し屋被害)にご注意ください!”と言うものです。
大阪府消費生活センターに寄せられた相談は次のような内容です。
 ・「半年住んでいた賃貸アパートの家賃を1ヶ月滞納しただけでドアロックされ追い出された。荷物が出せない。どうすれば良いか。」
 ・「最近収入が不安定で家賃を滞納した。今月、1日でも遅れたら強制退去だと言われた。出なければならないか。」
というものです。

これらは、家賃の滞納を理由に施錠や鍵の取替え、強引な取立てを行ういわゆる”追い出し屋被害”と考えられます。
家賃の滞納を理由に家賃滞納者への施錠、鍵の取替え、強引な取立てをすることは、社会的にも問題視され、現在、家賃債務保証業等に関する法規制の検討が進められています。
また、追い出し屋被害防止のため、弁護士等で結成する「全国追い出し屋対策会議」(連絡先:06-6361-0546)も設立されています。

更に、「追い出し屋被害者の会」も各地に結成されているようです。
大阪でも2月11日に結成されており、結成集会には支援する弁護士や司法書士らが参加しています。
「追い出し屋」被害は、敷金、礼金が不要ないわゆる「ゼロゼロ物件」を中心に相次いで発生しているようであり、民事訴訟の判決でも「違法行為」と認定され、保証会社に損害賠償を命じるケースも出ているそうです。

もし、このような問題に直面した場合は、取立てが厳しい、張り紙が張られたといった段階であっても、早めに相談することが大切です。
また、これから賃貸借契約を結ぶ場合は、保証会社との契約や管理会社との契約等についても不当な約定がないかをよく確認し、これら契約書に不安に感じる約定がある場合には、契約を結ぶ前に市町村の消費生活相談窓口に是非相談しましょう。

 


ムスカリの花

2010-05-07 | 

約1ヶ月に亘って中国地方の旅をご紹介しているうちに、草花は春の花から夏の花に移ってきました。
今日は久しぶりに花を取り上げたいと思います。
今日ご紹介する春の花「ムスカリ」は、中国地方の旅に出る前の4月初めに撮影したもので、時期遅れになっていますがご容赦ください。

ムスカリはユリ科ムスカリ属の球根植物で、地中海沿岸を中心に50~60品種があるそうです。
日本への渡来は明治初期といわれていますが、市場に出回り、人気品種となって各地の公園などに普通に見られるようになったのは30数年前からといわれています。
名前の由来はギリシャ語のムスク(moschos)で、麝香(じゃこう:香料の一種)を意味する言葉からと言われています。

・4月初旬に撮影したムスカリの花です。


ムスカリは、鱗形を持ち、幅が狭く、少し多肉質の葉を根出し、花茎は直立します。
花茎の高さは10㎝~30㎝になり、上部に小さなつぼ型または倒卵形状の花が多数連なって付きます。

花期は3月~4月で、1個の花の直径は2~3㎜程度、ブルーベリーの花のような開き口の小さい花を、下向きに先端を少し反らせて咲かせます。
花は一見するとブドウの実のように見えことから「ブドウヒアシンス」の別名を持っており、英名でも「グレープ ヒアシンス(grape hyacinth)」と言われています。

・ブドウの房のように固まって咲いているムスカリです。


花色は青紫、青、白色が多いようですが、黄緑、黄色、褐色のものもあるようです。
リスが立って周りを見回しているような可愛い感じから、花壇の縁取りに利用されることが多い他、鉢植えや切り花にも利用されているようです。

・このようにベル形の花をたくさん咲かせるところは、ブルーベリーの花によく似ています。


(参考)
育て方を調べましたのでご紹介します。
・植え付け時期は11月頃で、鉢植えは球根の先端が軽く隠れる程度の深さに植え、庭植えの場合はもう少し深く、5㎝程度土で覆います。
 植え付けが早すぎると葉ばかり茂り、遅すぎると開花が遅れるようです。
・発芽後は乾燥を嫌うので水遣りを欠かさないように行います。
・数年植えっぱなしでも構いませんが、球根が増えてくるので2~3年おきに掘り上げて植え替えしたほうがいいそうです。
・6月頃に葉が枯れてきたら球根を堀上げます。
 堀上げた球根は風通しの良い場所で陰干し、葉が枯れたら取り除いて風通しの良い場所で貯蔵します。
・花が咲き終わった花茎は付け根から切り取りますが、葉が青々と茂っているうちは絶対に切らないようにします。
 葉には球根に栄養を送る大事な役目があることに注意してください。




中国地方の旅(その26)舞鶴・引揚記念館(その2)

2010-05-06 | 旅行

中国地方の旅シリーズは昨日の25回で終了予定でしたが、「舞鶴引揚記念館」の記事が長くなりすぎたので、急遽2回に分けることにしました。
このため、今日の「舞鶴・引揚げ記念館(その2)」をご紹介して最終とさせていただきます。

「舞鶴引揚記念館」
「舞鶴引揚記念館」のある舞鶴港は、第二次世界大戦が終結した昭和20年(1945年)に最初の引揚船「雲仙丸」が入港して以来、昭和33年(1958年)までの13年間に受け入れた引揚者は66万4531人、遺骨は1万6269柱で、引揚の町として最後までその役割を果たして来ました。
その史実と戦争の悲惨さを後世へと語り継ぐ「平和のシンボル」として建設されたのが「舞鶴引揚記念館」です。
引揚記念館には引揚の歴史や抑留生活など、当時を伝える貴重な資料の数々が展示されていました。

「語らい」
舞鶴引揚記念公園に設置されている「語らい」のモニュメントです。
女性が両手で鳩を捧げている姿のこの「語らい」モニュメントは、引揚の歴史や戦争の悲惨さ、平和の尊さ、そして異郷で倒れていった多くの人々の鎮魂を語りあうという意味だそうです。
1990年(平成2年)早川収氏の作品だそうです。

・「語らい」モニュメントです。


引揚船「興安丸(7573トン)」の時鐘
「興安丸(7573トン)」は昭和11年(1936年)12月に関釜連絡船の第2船として建造され、第二次世界大戦前から戦後にかけて関釜連絡船、引揚げ船、イスラム教巡礼船として使用された昭和を代表する船だそうです。
昭和45年(1970年)11月にはその任務を終えて解体されました。
下の画像は、その興安丸の時鐘で、重さは15kgだそうです。

・誰でも自由に鳴らす事ができる「興安丸」の時鐘です。


舞鶴港は、戦中は旧海軍の軍事的拠点として使用されていましたが、戦後は大陸に進駐していた軍人・軍属や一般人の日本本土への引揚、および日本に在留していた中国・朝鮮人の送還のための指定港の一つとなっていました。

・展望台から見た「平(たいら)引揚桟橋」です。


戦後、日本人の引揚者は610万人余りになりましたが、その内舞鶴港では昭和20年10月から昭和33年9月までの13年間に664,531人が帰還したそうです。

・祖国への第一歩を印した「平引揚桟橋」です。(この平引揚桟橋は平成6年5月27日復元されたそうです)


「招霊碑」
ここにある碑文には、
「昭和20年8月8日、日ソ不可侵条約の一方的破棄による旧ソ連の参戦により発生した60万兵士のシベリア抑留と、満州における一般邦人の悲劇。
この死没者の鎮魂のため、各収容所跡・墓地・自決地付近の小石を蒐集、納石し、断腸の思いも空しく異国の地に果てた同胞の為、引揚桟橋の傍に招霊の碑を建立する」とありました。

「語り部の鐘」
案内板には、
 1打.強制抑留中死没された方々の招魂・慰霊
 2打.強制抑留引揚の苦難顕現
 3打.平和の祈願、不戦の誓い
どうぞご自由にお打ち下さい。すべての鐘の音が平和を訴えます。
とありました。

・引揚桟橋の左側が「招霊碑」、右側に「語り部の鐘」があります。


引揚港は舞鶴の他に横浜、浦賀、呉、仙崎、下関、門司、佐世保、博多、鹿児島の10の港が指定されていたようですが、他の港が早々に引揚港から除かれた為、ソ連軍によってシベリアに不法抑留されていた旧軍人など、引揚者の多くが舞鶴港を入港先・帰還港としたようです。
このため日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が舞鶴港へと出迎えに訪れました。

ソ連からの引揚船が着くたびに息子の帰りを待つ母・端野いせさんをモデルとした流行歌「岸壁の母」が、昭和29年(1954年)9月に歌手の菊池章子によって歌われ、100万枚以上の売れ行きとなる大流行しました。
昭和47年(1972年)には二葉百合子が浪曲調で歌い、これも250万枚以上の大ヒットとなったそうです。

・異国の丘と岸壁の母の歌碑です。


今回の中国地方の旅は大阪から山陽道を西に下り、山口県から日本海に出て、山陰道を舞鶴まで東上し、そして大阪まで戻ってくるという、走行距離2000kmを超えるドライブでした。
丁度、桜の時期と重なったため、どこに行っても桜の花が出迎えてくれるという最高の旅でした。
また、私にとって初めて訪れたところも多々あって、国内の歴史や文化を広く見聞できた大変有意義な旅となりました。

この旅を計画してくれた義妹ご夫妻に感謝申し上げます。
ありがとうございました。



中国地方の旅(その25)舞鶴・引揚げ記念館(その1)

2010-05-05 | 旅行

中国地方の旅シリーズも今日が最終となりました。
第1回目は岡山県笠岡市から始まり、名所を観光しながら山陽道を山口県山口市まで下りました。
そこから日本海に面した山口県萩市に出て、日本海沿いに名所旧跡を観光しながら山陰道を舞鶴まで東上してきました。
最終回となった今日の25回目は、涙を誘う歌謡曲「岸壁の母」でお馴染みの「舞鶴引揚記念館」をご紹介します。

「舞鶴引揚記念館」
「舞鶴引揚記念館」は引揚にかかわる一連の資料を展示する日本で唯一の施設として、引揚者用の「平引揚桟橋」を見下ろす丘の上に建てられています。

・「舞鶴引揚記念館」です。


「舞鶴クレインブリッジ」
「舞鶴クレインブリッジ(Crane bridge:鶴の橋)」は、戦後、引揚げの拠点となっ京都府舞鶴市の舞鶴平湾にかかる白い斜張橋で、全長735m、水面からの高さ95mの日本海側最大の斜張橋です。
二羽の鶴をメージして設計されたもので、主塔は鶴のくちばしを、ケーブルは羽をイメージして造られているそうです。

・舞鶴クレインブリッジです。


「カリヨン・モニュメント」
カリヨンとは、組み鐘のことで、音階を整えた一組の鐘を言います。
この「カリヨン・モニュメント」は平成7年、戦後50周年に設置したもので、高さ7.5m、12鐘で四季に応じた曲目を30分毎に奏でるそうです。


「望郷慰霊の碑」
この碑は第二次世界大戦に関連し北方諸地域において、はるかに祖国を望みながら、戦没或いは物故した人々の御霊を慰めると共に、恒久平和の祈りを込めて、朔北会会員並びに有志がこれを建てたものだそうです。

   「誰も彼も 白夜の夢は 親潮の 寄せてはかへす 舞鶴の浜」

・「望郷慰霊の碑」です。


「平和の群像」
この平和の群像は、多くの引揚者が母国への第一歩を印した思い出の地の舞鶴に、平和の群像を設立することによって、この地に帰り得ず、異郷に倒れた幾多の御霊に弔意を表すると共に、世界の平和を願い戦争を永久に放棄する日本国民の悲願を込めて長く後世に伝えるために建てられたそうです。

・平和の群像です。


・引揚記念公園にある「あヽ母なる国」の石碑です。


今日で最終とする予定でしたが、内容が長くなったので6枚の画像を明日に繰り越します。
このため明日は「舞鶴・引揚げ記念館(その2)」をご紹介します。




中国地方の旅(その24)宮津市・天橋立

2010-05-04 | 旅行

中国地方の旅シリーズも明日の25回目で終了予定です。
山陰道を東上し、ご紹介している旅先は既に近畿地方に入っており、内容がタイトルとは違っていますがその事はご容赦いただき、今日は皆さんよくご存知の天橋立をご紹介します。

天橋立は京都北部の宮津市にある景勝地で、宮城県の「松島」、広島県の「宮島」と並んで日本三景の一つに数えられています。
その絶景は、宮津湾と内海の阿蘇海を全長3.6kmの砂嘴(さし)が南北に隔ててできており、僅か文殊の切り戸によって両水面が通じているだけです。
砂嘴(さし)の幅は20mから170mに達するところまであり、一帯には約8000本の松林が生え、東側には白い砂浜が広がっています。
展望台から見たときには、この砂嘴(さし)が天に架かる橋に見えることから天橋立と名付けられたものです。

天橋立の眺めは東西南北の四方に展望所があり、四通りの姿を見せてくれます。
その中でも北側からの眺めである「斜め一文字」と南側からの眺めである「飛龍観」が特に有名で、観光客を2分しているそうです。

「斜め一文字」
北側の傘松公園からの眺めで、名前の通り斜め一文字に見える景観からその名がついたそうです。

・傘松公園からの「斜め一文字」の眺めです。


天橋立の名前の由来は、「股覗き」をすると目の錯覚により天への架け橋となって見えることからとされていますが、この逆さまに見る「股覗き」は、ここ傘松公園展望所が発祥の地と言われています。
また、四方の展望所の中では、この傘松公園展望所からの「斜め一文字」の眺めが伝統的に美しいとされているようです。

・これが「斜めの一文字」の「股覗き」画像です。天への架け橋と見えるでしょうか?


天橋立の展望所は前述したように宮津湾を挟んで東西南北の四方からの景観が楽しめます。
「斜めの一文字」の他にも「飛龍観」、「一字観」、「雪舟観」がありますので併せてご紹介します。

「飛龍観」
「飛龍観」とは、文珠山の山頂にある天橋立ビューランド展望台から見る南側の眺めで、龍が天に昇る姿に見えることからその名前がつきました。

・天橋立ビューランド展望台からの眺めで「飛龍観」です。
ファイル:Amanohashidate view from ViewLand.jpg

「一字観」
「一字観」は宮津湾の西側、「大内峠一字観公園」からの眺めで、天橋立が横一文字に見える景観からそのように呼ばれています。

・「大内峠一字観公園」からの「一字観」の眺めで、真横に見える天橋立です。


「雪舟観」
「雪舟観」とは、宮津湾の東側に位置する「雪舟観展望所」からの眺めで、雪舟筆「天橋立図」が書かれたことに由来するそうです。

・雪舟筆「天橋立図」です(ウィキペディアより)
ファイル:SesshuAmanohashidate.jpg

(参考)
・「砂嘴(さし)」
 砂嘴(さし)とは、沿岸流によって運ばれてきた砂礫(されき)が湾口の一方の端から海中に細長く堆積して提状をなすものです。

・「日本三景の由来」
 日本三景は、1643年(寛永20年)に林春斎と言う学者が、「日本国事跡考」という著書の中で、「丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の宮島を日本三景」と書いた
 のが現在言われている日本三景の由来と言われています。

・平安中期の歌人、和泉式部の娘の小式部内侍(こしきぶのないし)が天橋立を詠んだ歌をご紹介します。

  「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立」 小式部内侍(こしきぶのないし)

 (意訳) 母のいる丹後の国は大江山の生野を通っていく遠い處なので、あの天橋立はまだ踏んでもいないし、勿論母からの文も見ていません
 




中国地方の旅(その23)伊根の舟屋

2010-05-03 | 旅行
中国地方の旅シリーズも23回目になり、タイトルとは違って近畿地方の若狭湾をご紹介しています。
今日は、丹後半島の一端に位置し、若狭湾に面して建ち並んでいる、京都府与謝郡伊根町の「伊根の舟屋」をご紹介します。

「伊根の舟屋」とは、丹後半島の東側に位置する伊根町伊根地区の漁村の家並みです。
伊根地区の舟屋は江戸時代中期頃から存在していたと見られており、現在約238軒の舟屋が伊根湾をグルッと取り囲むように並んでいます。
舟屋群の規模とその美しい建ち並みは、全国でも他に類を見ないといわれており、満潮時には舟屋全体が海に浮かんでいるように見える、とても幻想的な風景だそうです。

・建ち並んだ舟屋です。


海辺ぎりぎりに建ち並ぶ舟屋は、元々は階下に舟を引き込み、二階は縄や綱などの漁具を置く物置場で、雨や雪の多いこの地では網の干し場でもあったようです。現在では、1階が舟の格納庫の他に漁具などの物置き場として使われており、2階は居宅・民宿などの生活の場となっているそうです。
平成17年には漁村では全国で初となる国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。

・切妻造りの屋根を海側に向けている「伊根の舟屋」群です。


舟屋の構造は、土台や柱は「椎」の木を用い、梁(はり)は松の原木を使用してがっしりと組んでいるそうです。
舟屋の間口は二隻引き、三隻引きといって、まちまちの大きさですが、どの舟屋も切妻造りとなっており、海側に小さな一定の窓が作られているのが特色となっています。
この舟屋群は明治13年(1880年)から昭和25年(1950年)までのブリ景気によってその多くが瓦葺2階建てに建て替えられたそうです。

・伊根湾の右手側の舟屋群です。


この伊根の舟屋にグルッと囲まれている伊根湾の入り口には、「椎」の古木で覆われた周囲1.5㎞の「青島」が横たわって天然の防波堤の役目を果たしており、このため伊根湾は天然の良港と言われています。

・伊根湾の入り口にあって、天然の防波堤となっている「青島」です。


この伊根湾は暖流と寒流が交差する複雑な潮回りで、その海域でもまれて育つ鰤(ぶり)は脂が乗って美味しく、「伊根鰤(ぶり)」として知られています。
このため、この海域は「日本三大ぶり漁場」の一つに数えられているそうです。

また、伊根湾には円形や四角いイケスがいくつもあり、このイケスの中で「伊根鰤(ぶり)」の養殖が行われています。
ここで育つ伊根の寒ぶりは、富山県氷見の寒ブリと並ぶ最高級の寒ブリといわれており、肉質は程よく脂が乗り、身の引き締まった天然の寒ブリと遜色ない美味しさだそうです。

・丸型や四角い形のイケスがある、伊根鰤(ブリ)の養殖葉場です






中国地方の旅(その22)京丹後市・丹後松島と間人の夕日

2010-05-02 | 旅行

4月11日からご紹介しています「中国地方の旅」シリーズは、昨日から近畿地方のご紹介となっていますが、タイトルは引き続き「中国地方の旅」とします。
今日は京都府京丹後市の「丹後松島と丹後半島の夕日」をご紹介します。

「丹後松島」は日本三景の一つ、宮城県の「松島」に似ていることから、こう呼ばれるようになりました。
リアス式海岸が自然の美を作り出しており、「京都自然二百選」にも選ばれているそうです。

・仙台の「松島」とは趣を異にする、リアス式海岸の美しさを持っている「丹後松島」の景観です。


「丹後松島」を訪れたのは4月8日で丁度桜が満開でした。日本海のリアス式海岸の景観と桜の花見が同時にできる最高の丹後路でした。

・満開の桜が見事な丹後松島です。


「間人(たいざ)の立岩」
柱状玄武岩がそそり立っているところから「立岩」と呼ばれるようになったそうで、日本でも数少ない自然岩の一つだそうです。

「立岩伝説」
用明天皇の第三皇子・麿子親王が鰾古、軽石、土車という3匹の鬼を退治したとき、二匹目は殺し、土車だけは見せしめのためにこの大岩に封じ込めたと言われ、 今でも風の強い、波の高い夜などは鬼の号泣する声が聞こえると伝えられているそうです。

・間人の立岩です。


「間人(はしうど)」皇后ゆかりの丹後半島「間人(たいざ)」からの夕日は素晴らしいといわれています。
この素晴らしい夕日が水平線に隠れる様子を撮影しましたのでご堪能ください。

・18時26分太陽が水平線に近づいていきます。


・上記から1分後の18時27分には水平線に接してきました。


・更に1分後には太陽の1/3位が水平線に隠れました。


・18時29分には太陽の半分が水平線に隠れました。



・18時30分、太陽は殆ど隠れてしまいました。この後、間も無く日没となりました。


この日は、丹後町間人(たいざ)の丹後温泉「はしうど荘」に宿泊しました。
この旅館で、旅館の名前になっている「はしうど」と難しい読み方の「間人(たいざ)」の謂れについて聞きましたのでご紹介します。

「はしうど」とは、第31代用明天皇(在位:585年10月~587年5月)のお后、「間人(はしうど)」皇后のお名前だそうです。そして、この「間人(はしうど)」皇后は聖徳太子の母君でもあります。

「間人(はしうど)」皇后は曽我氏と物部氏の争いを避けるためのに、この地で暫く滞在されていたそうです。
そして、平和が訪れた後、再び大和の国に戻られる際に、大変お世話になったこの地の人々に自分の名前を贈りました。
しかし、住民の人たちは「間人(はしうど)」と「呼び捨てにするなど畏れ多い」ということで、皇后が退座されたことに因んで「間人(はしうど)」を「たいざ」と呼ぶようになったそうです。