らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

東芝問題と電気炊飯器

2017-12-21 | 時事

今月13日、東芝は半導体事業で協業する米ウエスタンデジタル(WD)との対立を解消して和解したと正式に発表しました。
半年以上にわたる係争に終止符が打たれたことから、東芝は半導体子会社「東芝メモリ」の売却によって1兆円超の売却益を得られる可能性が高まり、経営危機からの脱却に向けて大きく前進しました。

東芝を巡る問題は、「不正会計問題」と「巨額損失問題」の二点に集約されるのですが、その一つの2015年に発覚した「不正会計問題」は、歴代トップを含めた組織的関与が指摘されています。
発覚しただけでも、2008年から2014年にかけて、社長ら経営陣が各事業に対して無茶な利益目標を押しつけ、その結果、現場では利益の水増しや当期の費用の先送りなど数字の操作が常態化し、実態を反映しない「黒字」が公表され続けていたのです。

そしてもう一つの「巨額損失問題」は、不正会計問題を受けて経営陣が刷新された後に噴出した事象なのです。
東芝では、ドル箱の半導体事業とともに原子力事業を柱としてきたのですが、2006年に買収したアメリカ企業「ウェスチング社」において、2011年の原発事故以降経営が悪化し、アメリカでの原発工事の遅れによって、2016年には9657億の損失を計上することになったのです。
この為、東芝の資本が食いつぶされて一時的に自己資本がマイナスになる債務超過に陥りました。
このまま債務超過が続くと、東証の基準により1部から2部に指定替えされて、ますます苦境に陥ることになるところだったのが、どうやら最大の危機を脱出したようなのです。

その東芝は嘗て、主婦の仕事を大幅に楽にする画期的な電気製品を作ってくれました。
それは日本で初めて発売された電気炊飯器です。
ふっくらとしたご飯を自動で炊き上げる電気炊飯器は東京の町工場が開発し、昭和30年(1955年)に東京芝浦電気(現:東芝)から初めて発売されました。
東芝から開発の依頼を受けたのは下請けだった大田区の町工場「光伸社」です。
社長は大量のコメを買い、家族と一緒に寝る間を惜しんで実験を繰り返したと言われています。
苦心していた温度調節の方法も、水が蒸発して釜の温度が急上昇すると切れる仕組みを思いつき、3年かけて「東芝電気釜」の完成にこぎ着けました。
毎朝主婦が薪をくべ、かまどの前に張り付いていた生活を一変させた発明は「主婦の睡眠時間を1時間は延ばした」とも評されました。
価格は当時の大卒初任給の3分の1に相当する3200円でかなりの高額でしたが、爆発的なヒット商品になりました。

電気釜のその後の進化は目覚ましく、70年代には保温機能などが登場し、最近では土鍋など様々な内釜の素材にこだわった機種が人気となっています。
海外でも好評で、数年前には来日した中国人が高価な炊飯器を「爆買い」する現象も起きました。

今回の東芝問題は、新製品を開発しながら、こつこつと信頼を勝ち取って大企業に成長した名門企業も、ガバナンスの機能が不全に陥ると、会社存続の危機に直面するという、不名誉な事例を示してくれました。
現在、日産自動車や神戸製鋼所、スバルなど、日本の製造業の信頼を揺るがすような不祥事が次々と発覚しており、世界に誇ってきた「Made in Japan」の信頼が大きく揺らいでいます。
当該企業においては、今、原因究明が行われているようですが、これらの不祥事を産業界全体で共有し、再発防止を徹底すると共に「Made in Japan」の信頼をもう一度取り戻して欲しいものです。


親父の小言

2017-12-20 | 雑学

先日、現役時代の同僚8人と居酒屋で忘年会をしました。
ふと気が付くと、その居酒屋に「親父の小言」と書かれた額が掲げられていたのです。
日常生活上の教訓として参考になりそうなので、ご紹介することにしました。

最近では小言を言う親父は少なくなったかも知れません。
掲げられている「親父の小言」は、小言と言うより子への教訓を書いているものでした。

『親の小言と冷酒は後で効く』から書き出されていますが、これは「親の意見と冷酒は後で効く」という諺をもじったもで、冷酒は飲んですぐより、後になってじっくり効いてくることから、親の意見も後になって効いてくると教えているものです。

・これが居酒屋に掲げられていた「親父の小言」です。


「親父の小言」には参考になるものがたくさん書かれているので、主なものを列挙します。

・人には腹を立てるな  ・恩は遠くから返せ     ・人には馬鹿にされていろ  ・年忌法事を怠るな  
・家業には精を出せ   ・働いて儲けて使え    ・人には貸してやれ       ・女房は早くもて (嫁を早くもらえ)  
・博打は打つな      ・大めしは食うな      ・世話やきにこるな       ・人の苦労は助けてやれ
・戸締りに気をつけろ   ・何事も身分相応にしろ  ・神仏はよく拝ませ       ・朝は機嫌よくしろ   
・年寄りはいたわれ    ・義理は欠かすな      ・大酒は飲むな          ・借りては使うな(借金するな)       
・貧乏は苦にするな    ・判事(保証人)はきつく断れ

いずれももっともなことです。
先祖を敬い、一生懸命働いて、そして義理を欠かさず、分相応な生活を送れと言うことです。

同じような諺に、「親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない」もあります。
その意味は、親が子の為を思って言う意見には一つとして無駄がなく、全て役に立つ事ばかりだから、心して聞きなさいということです。
「仇」は「徒」とも書き、実を結ばない「徒花(あだばな)」のことで、茄子の花も無駄花がなく、全て実を結ぶ野菜なので摘花するよりは落花を防ぐような管理をしなさいの意味からです。


方違神社

2017-12-19 | 地元紹介

先日、堺まで出かける機会があったので、「方違神社」に寄ってきました。
「方違神社」は「ほうちがいじんじゃ」と読みます。

「創建」
方違神社の創建は崇神天皇8年(紀元前90年)です。
当社のHPによれば、人皇10代崇神天皇5年、国内に疫病が流行し多くの民が死亡した。これを憂いた天皇は、同8年12月(紀元前90年)勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟(ちぬ)の石津原(現・堺市)に遣わせ、須佐之男神を祀らせ給うた。すると疫病は途絶え、五穀は豊穣となったといい、これが方違神社創祀の起源とされる。
となっています。



方違神社は摂津・河内・和泉の三国の境の「三国山」と呼ばれる地(現:三国ヶ丘)にあり、奈良時代には人馬往来の要衝でした。
また平安時代には熊野への参詣者が必ず立ち寄り、旅の安全を祈ったと言われています。
どの国にも属さない、方位のない清地として、古くから境内の土や砂が悪い方位を祓う、所謂、方災除けの神として信仰を集め、いまも家の新築や転居の際の厄除け祈願に、或いは、出かけなければならない方向が良くない時に、一度別方向に向かってから出かける方違い(かたたがい)の風習によって、大勢の参拝者が訪れるようです。

・平成22年に創建2100年を迎え、記念事業として社殿造営を行った新社殿です。


崇神天皇8年12月(紀元前90年)の創祀より時を経て、神功皇后は夫である仲哀天皇の死後、朝鮮半島に出兵し新羅・高句麗・百濟を平定します。
皇后は新羅から凱旋の途中、皇子(後の応神天皇)とは腹違いの2人の王子の叛乱に遭いますが、住吉大神の御神教により、5月晦日、御自ら沢山の平瓦を作って天神地祇(てんじんちぎ:全ての神々)を祀り、菰(こも)の葉に埴土(しょくど:粘土50%以上を含む土壌)を包み粽(ちまき)として奉り、方災除けを祈願して皇軍を勝利に導きだしました。
後にこの地に神霊を留め、方違社と尊び奉りました。

この神社は方災除けの神として朝廷武家をはじめ崇敬篤く、関連文献には、仁徳天皇・孝徳天皇・弘法大師空海・平清盛・後鳥羽天皇・徳川家康などの名前が見えると言うことです。

・神功皇后が御馬をつながれたと伝えられる旧蹟です。



マドンナの宝石

2017-12-18 | ナツメロ

今日はロマンチックでとってもムーディーなポピュラー音楽「マドンナの宝石」をお聴きいただきたいと思います。
この曲は、イタリアの作曲家エルマンノ・ウォルフ・フェラーリが作曲した全3幕からなるオペラの第2幕前の間奏曲です。
『聖母の宝石』とも言われていますが、実は、男と女の愛憎劇を描くオペラなのです。

物語の舞台はイタリア南部の街ナポリです。
【第1幕】 鍛冶屋のジェナロは、奔放で情熱的な義理の妹マリエラに思いを寄せていましたが、彼女が心惹かれていたのは、犯罪集団のリーダー、ラファエレ。
       聖母祭りの日、彼はマリエラに言い寄ります。
       「お前のためなら、あの聖母マドンナの宝石でも盗んでみせる」。それを聞いたジェナロは、「あんな男とは付き合うな」と彼女を引き離します。
【第2幕】 マドンナの宝石を盗み出してしまったジェナロがマリエラに宝石を渡すと、その妖しい美しさに魅せられた彼女は、兄と恋人の区別がつかなくなり、ジェナロに
       体を許してしまいます。
【第3幕】 マリエラにふられたジェナロは、失恋の絶望と罪の深さを思い知り、自らの命を絶ちます。

このオペラの第1幕と第2幕の間で演奏されているのが今日ご紹介する「マドンナの宝石」です。
ヴォルフ・フェラーリは、登場人物の甘く切ない恋心を彷彿とさせるような印象的なメロディーを取り入れることで、オペラ全体にインパクトや彩りを与えようとしたのではないかと言うことです。

それではイタリアの作曲家エルマンノ・ウォルフ・フェラーリ作曲の「マドンナの宝石」をお聴きください。


吉備団子

2017-12-17 | 地元紹介

私の故郷、岡山には桃太郎伝説があります。
♪ もも太郎さん 桃太郎さん
  お腰につけたきび団子
  ひとつ私にくださいな
桃太郎伝説の鬼退治を歌ったこの童謡はどなたもよくご存知でしょう。
童謡にも歌われている、桃太郎の「きびだんご」は岡山県のお土産の定番となっています。



この「きびだんご」は「吉備団子」と「黍団子」の二つの表記がありますが、どのような違いがあるのでしょうか?
そこで今日は「きび団子」の由来について調べました。

桃太郎と言う歌は、1911年(明治44年)の音楽の教科書「尋常小学唱歌」で初めて掲載されたのですが、この時の表記は「黍団子」でした。
「黍」は五種の穀物(米、麦、粟、豆、黍または稗)の一種で、アワ(粟)よりやや大きめの小さな実をつけるイネ科の植物です。
昔は岡山県ではよく採れる穀物でした。

江戸初期の書物には既に黍を使った団子が登場しており、岡山県の吉備津神社では、「直会(なおらい)」と言う神事後の酒宴で食されたと伝えられています。
当時の黍団子は切り餅のように四角く、あんかけにしたり、汁に入れられたりしていたそうです。

この黍団子を、吉備国の団子、いわゆる「吉備団子」として安政3年(1856年)に売りだしたのが現在も続く廣栄堂の初代・武田浅次郎でした。
黍だけでは味も悪く日持ちもしなかったため改良を重ね、もち米に黍を混ぜて風味を出すと言う、ほぼ現在の形に仕上げたのだそうです。

この浅次郎と言う人物はなかなか商売人だったようで、日清戦争の際、桃太郎の格好をして「日本一の吉備団子」と言うのぼりを立て、駅や港に出向いて兵隊相手に宣伝をしました。
くしくも鬼退治する桃太郎と大国の清国を相手に戦う日本軍のイメージが結びつき、飛ぶように売れたそうです。

現在も岡山の土産としてよく売れている「きびだんご」の表記は、穀物の黍からつくられたので「黍団子」が正式表記であり、「吉備団子」や「きびだんご」は商品名の表記のようです。


憲法改正

2017-12-16 | 時事

先の衆議院選挙では自民党や希望の党、日本維新の会などは明確に憲法改正を示していました。
野党は安倍政権下での憲法改正は絶対阻止と訴えていましたが、国民に問うことなく、政党のイデオロギーだけで国民の意思を封殺していいのでしょうか?
そこで今日は世界の国の憲法改正について調べてみました。

日本国憲法が制定されたのは1946年(昭和21年)で、現在、世界にある180の憲法のなかでは15番目に古いのだそうです。
そして、制定以来一度も改正されていないという、珍しい「記録」となっています。
現在の日本国憲法は70年間に亘って一文字たりとも変わっていません。
これほど長い間一度も改正されていない憲法は世界中で日本の憲法だけだそうです。

「世界の憲法改正」
世界で最も古いアメリカの憲法は1787年に制定されて以来、10回以上改正されており、2位のノルウェーの憲法は1814年の制定以来150回以上も改正されています。
また、日本同様に第2次世界大戦の敗戦国であるイタリアは1947年に憲法を制定していますが、その後6回改正しています。

「日本国憲法」
【日本国憲法96条全文】
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。
この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。


「憲法改正の手順」
憲法改正の手順(国会発議〜国民投票〜公布まで)は次の通りです。
(1)国会発議
・通常の法案提出とは異なり、衆議院100人、参議院50人の賛同によって憲法改正原案が国会に提出される。
・衆参両院の憲法審査会にて憲法改正原案を審査。両院ごと過半数の賛成で可決され、本会議に提出される。
・衆・参両院の本会議にてそれぞれ3分の2以上の賛成で可決される。この際、衆議院の優越などは適用されない。
・両院本会議での可決を以って国会による憲法改正発議が行われ、国民投票にかけられる。
(2)国民投票
・国民投票は国会発議後60日〜180日以内に実施される。投票権は18歳以上の日本国民にあります。(在外邦人を含む)
・国民投票は「賛成」「反対」の2択。投票総数の過半数の賛成で憲法改正案が成立する。(現時点で最低投票率は設定されていない)
・警察官など一部の公務員を除き、公務員の政治活動も許可される。
(3)公布
・天皇によって新憲法(新条文)が公布される。
・国民投票の結果、告示から30日以内であれば無効訴訟を起こすことができる。その間であっても、国民投票の効果は原則停止しない。

以上が憲法改正の手順です。
もし、国民の過半数が反対であるならば、例え国会で憲法改正の発議をしても否決されるのです。
憲法改正の決定権は国民にあります。

改正することがいいのか悪いかはその憲法の内容やどんな改正かによって異なるので一概には言えませんが、戦後の混乱期にアメリカによって作られた憲法であることや当時と現在とは比較にならないほど経済や社会情勢が変化していること、東アジアでは嘗てないほど危険な状態になってきた事などを考慮すれば、現状に合わせるために、日本人による日本人のための憲法改正も必要ではないかと多くの人が考えているのではないでしょうか?
左系の政党が喧伝している「憲法改正絶対反対!」は国民投票によって国民が意思表明する権利を剥奪していることになります。
国民の代表である国会議員は自分たちのイデオロギーを優先するのではなく、国民の意思を代弁して憲法改正の発議をするべきです。
そして、国民投票によって国民の意思を問うべきと考えますが如何でしょうか?


大阪都構想

2017-12-15 | 地元紹介

大阪では大阪市を廃止し、4か6の独立した自治体(特別区)に再編する「大阪都構想」の制度設計を行う法定協議会の会合が断続的に行われています。
現行の24区を5区に再編する前回の特別区案は平成27年春の住民投票で反対多数となって廃案となりましたが、修正版として4か6区に再編する計4通りの区割り案が提示され、11月には移行コストや収支見通しも示されました。

法定協議会では「24区のままで大阪の課題解決を図ることはできるのか」とか、「財政面だけに偏らず、住民自治の観点からも考える必要がある」など、いろいろな意見が出ているようですが、大阪都は本当に無駄が省けて住民のためになるのでしょうか?
大阪市民の多くは「大阪都構想」のメリット・デメリットについて、未だによく理解できていないのではないかと思われます。
因みに、私が住まいしている熊取町は、現在は「大阪府泉南郡熊取町」ですが、狩りに都構想が成立したとして「大阪都泉南郡熊取町」となったとしても何のメリットもありません。
数百億円と言われる税金を投入してまで、「府」から「都」に変更するメリットは何処にあるのか疑問を感じます。

ところで、日本の地方行政区画はなぜ都・道・府・県と言う4種の呼び名で区分されているのでしょうか?
そこで調べてみました。

明治政府は江戸時代の藩を廃して「県」を設置する、所謂、廃藩置県を実施したのです。
この時、明治政府は都市として重要と判断した東京、大阪、京都に「県」よりも格上の「府」という名称をつけました。
東京府、大阪府、京都府と3府あった「府」は、昭和18年(1943年)に東京府と東京市(現23区)が合体して「東京都」に改名し、「府」は大阪府と京都府だけになりました。
現在は「府」も「県」も単に名称が異なるだけで「府」「都」「県」には上下の格差はありません。

では、「道」が付く北海道はどうでしょうか?
北海道は、実は「都・府・県」と歴史的背景が違っています。
北海道は古くは蝦夷地(えぞち)呼ばれており、江戸政府の支配体制が確立されていない土地でした。
開拓地としての蝦夷地には「県」に値する土地(藩)がなかったため、明治政府はここを内地とは区別して整備したのです。
北海道という名称は、律令制での行政区分だったものをそのまま残したのだそうです。
なお、北海道の名前の由来ははっきりしませんが、少なくとも「東海道」などと同じ意味の「道」ではないかと言われています。

さて、前述したように現在では「都」も「府」も「県」も上下の格差はありません。
「大阪府」が「大阪都」になったとしても格が上がるわけではありません。
府の財政や住民に大きなメリットがないとすれば、いくら大阪府内で支持率トップの大阪維新の会の看板政策とはいえ、大阪都構想にこだわる事もないのではないかと思われますが、如何でしょうか?


地鎮祭と神道

2017-12-14 | 雑学

一年ほど前に隣家が引っ越していき、売り物件になっていました。
なかなか買い手が見つからなかったのですが、3~4か月前に売れて「売り家」の看板が外されました。
その後、暫く動きがなかったのですが、先月には取り壊されて整地され、そして先週には地鎮祭が行われて基礎工事が始まりました。

地鎮祭は竹を四角に立て、神前を作って神主が祝詞をあげます。これはまさに神道の儀式です。
その施主の信仰が神道でなくてもこの儀式を行いますが、何故なのでしょうか?

「地鎮祭」
地鎮祭は基礎工事が始まる前にその土地の神を祀って工事の無事を祈願する祭儀ですが、これは前述したように神道の信仰による儀式です。
神道の信仰は、神の存在ばかりか、万物に宿る霊魂の存在(山の霊・樹木の霊・岩の霊・土地の霊等)までも信仰の対象としており、その万物に手を加える際に、悪霊を鎮めようとする儀式です。

「神道と地鎮祭」
地鎮祭は、神道からの習わしによって、万物(山、樹木、岩、土地など)に手を加えようとする際に、前もって神様に降臨してもらい、事故などが起こらないように、そして、住まいとする家族の繁栄や工事の開始を報告し、土地の神様を鎮めることを目的として行われます。
これは昔からの日本人の民俗的信仰の儀式でもあり、日頃の宗教とは関連付けるものではないようです。

「地鎮祭訴訟」
地鎮祭については昭和52年に「津地鎮祭訴訟」の最高裁判決があります。
『三重県津市が市立体育館の建設に際し、公金を支出して地鎮祭を行ったことについて、憲法に定められた政教分離の原則に反するかどうかが争われた裁判で、最高裁判所は昭和52年(1977年)、特定の宗教を援助・助成・促進したり、他の宗教を圧迫・干渉を加えたりするものとは認められないとして、憲法に違反しない』との判断を下しているのです。

「地鎮祭の様式」
地鎮祭の様式には簡易的なものと本格的なものがあります。
公共建築など大規模な計画では本格的な様式となりますが、一般住宅の建築では簡易的な内容となる場合もあります。
本格的に地鎮祭を行う場合には、神職を呼んでお供えものを準備するため、それなりの出費が必要です。
一方、注文住宅など小規模な工事では施主や家族、施工業者などの簡易的な内容となる場合があります。

ところが、最近では、一般住宅建築では地鎮祭を行わない施主が多いようです。
しかし、注文住宅は長く住むものであることや、施工業者の工事の安全を祈るため、土地の神に挨拶を行う儀式として必要ではないかという意見も多いようです。

今日は隣家の工事に関連して、地鎮祭について調べました。


大涌谷の黒卵

2017-12-13 | 雑学

昨日の読売新聞にお正月恒例の箱根駅伝に出場する大学、21チームが紹介されていました。
記事では、青山学院大学の4連覇なるか、それとも出雲全日本大学選抜駅伝を制した東海大学か、或いは全日本大学駅伝を制した神奈川大学か、はたまた、10㎞28分台の選手を揃えているその他のチームか、いずれにしても予断を許さない展開が予想されると言うことです。
毎年、箱根駅伝を楽しみにしているのですが、あと半月余りに迫った箱根駅伝がますます楽しみとなりました。

ところで箱根と言えば、2年半前の2015年5月、箱根山の大涌谷で火山活動が活発になり、入山規制が敷かれていました。
その後、報道がありませんが、ないと言うことは火山活動は落ち着いてきているのでしょうね。
沈静化して元の状態になったのであればいいのですが・・・。

大涌谷は明治以前は「地獄谷」として人々に恐れられていたと言われており、今も地獄を思わせる荒涼とした谷に白い噴煙を立ち上らせています。
私は火山活動が活発になる前の2011年5月に高校時代の同窓会の後、大涌谷を訪れたことがあるのですが、この白い噴煙が上っている所の手前の売店では黒い温泉卵を売っていました。

・桃源台からケーブルカーを乗り継いで強羅まで行き、大涌谷の湯けむりを見学しました。


その黒い卵は大涌谷の名物であり、「一つ食べると7年、二つ食べると14年寿命が延びる」と言われている卵で、ここを訪れる人は噴煙以外に、この「黒卵」にも関心があると言うことです。
この名物の黒卵、寿命は兎も角、何故、黒いのでしょうか?
調べてみました。

「大涌谷の黒卵」
ここの卵はもとから黒いわけではありません。元は普通の白い卵なのです。
何故黒いのかと言うと、大涌谷特有の温泉湯に硫化水素と鉄が含まれているためだそうです。
この湯に入れるとそれらが結合して硫化鉄になって殻が真っ黒に変色するようです。
最初に80度の温泉湯で10~15分間茹で、更に、100度近い高温で5分ほど蒸し上げると温泉のミネラル成分が浸透して独特の風味になると言うことです。

このご利益のある黒卵を6年前に3個食べた小生は、そろそろ1個分のご利益がなくなる頃となりました。
引き続き2個分のご利益により、この後14年ほどは健康に過ごさせていただきたいと思っています。

・これが “1個食べると寿命が7年伸びる”とか云われている大涌谷名物の「黒い温泉卵」です。(2011年5月撮影)




本能寺の変と佃煮

2017-12-12 | 雑学

NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」もいよいよ来週の最終回を残すのみとなりました。
一昨日には「本能寺が変」が放送され、明智光秀の謀反によって信長が自害し、その知らせを聞いた家康が堺から伊賀越えをして岡崎に戻る、有名な「神君伊賀越え」のシーンもありました。
今年も大河ドラマで1年間楽しませてもらいました。

ところで、「本能寺の変」と佃煮に関連性がありそうなので調べてみました。
佃煮はその名前から東京都中央区の佃島が発祥と言うことはよく知られています。しかし、そのルーツを探ると安土桃山時代の大坂へ遡るようです。
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反によって天下統一を目前に織田信長は自害します。よく知られている「本能寺の変」が起きたのです。
この時、徳川家康は信長に招かれて安土城を訪れた後、僅かな家来を引き連れて堺に滞在していました。
信長自害の知らせを受けた家康は腹を切って後を追おうと考えましたが、「本国まで戻り軍を整えて明智を討つべき」と説得され、三河の岡崎城へ戻る決意をしたのです。
一行は明智軍らの襲撃を避けるため、難所である伊賀(現三重県)の山を抜け、伊勢から海を渡って岡崎に帰るルートを取りました。
これが後に神格化された「神君 伊賀越え」と呼ばれるエピソードになったのです。

その途中、摂津の国(大阪府)神崎川で渡る船がなくて困っていたところ、漁船を用立てたのが、地元・佃村の庄屋、森 孫右衛門でした。
孫右衛門はこの時、食料として小魚などを塩水で煮た「塩煮」と呼ばれる食糧を一行に提供したのです。
塩煮は漁師たちの間で作られていた非常食で、長期間の保存も可能と言う優れ物だったため、その後の道中を支える貴重な食料となりました。
こうして家康一行は伊賀を超えて伊勢・白子へ辿りつき、海路で岡崎まで帰ることができたのです。

難を逃れた家康は江戸城へ移った後、天正18年(1590年)に孫右衛門を始めとする佃村の漁師30人余りを江戸に移住させ、数々の特権を与えて優遇しました。
三代将軍家光の時代には、隅田川河口に百間(約180m)四方を自由に使える特権を与えられました。
これにより、漁師たちは江戸湾の中に島を築いて移り住んだのです。これが現在の佃島なのです。
佃島の漁師たちは「塩煮」の要領で小魚などを醤油煮にする保存食を作り始めました。
これが佃煮の原型であり、ここで作られた事から佃煮と名付けて江戸市中に売り出されるようになり、全国に広まりました。

現在では材料や産地を問わずこのよな食品を総称して佃煮と呼んでいますが、もし、本能寺の変が起こらなければ、森 孫右衛門も家康に「塩煮」を提供していないだろうし、東京の佃島と言う地名も佃煮も誕生していなかったかもしれませんね。