あまり観客が入っていなかったが、これは観る価値ありと思った映画の紹介。いま上映中の『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』。現題が Where to Invade Next なので、当初はアメリカの軍産複合体を扱ったドキュメンタリーか何かかと思っていたが、内容は全く違うものだった。映画のタイトルと内容がミスマッチを起こしていて、それも集客に影響を与えているかもしれない。
マイケル・ムーアが世界各国を侵略しに行って、そこから「戦利品」を米国に持ちかえるというストーリー。持ち帰る戦利品の中には、スロベニアの大学授業料無償化、ポルトガルの麻薬合法化、フィンランドの教育改革・・・・など盛りだくさん。これらの戦利品はサンダース候補の公約の中にも相当程度取り込まれている。ムーアの「侵略」の成果は、アメリカの若者に浸透してきたといえるだろう。
最初のうち(イタリア編、フランス編)は、「Sicko と似たつくりだな、だんだんムーアもネタ切れかな・・・・」などと思って観ていたが、映画は後半になるほどに面白くなっていく。とくに感動的だったのは、チュニジア編とアイスランド編だった。
最後の方で登場したアイスランド編の動画の断片がyoutubeにあったので貼り付けておく。アイスランドは世界でももっとも女性が活躍している度合いの高い国であるが、唯一、金融部門だけは男性社会だった。そして、2007年のアイスランドの金融危機は「男性ホルモン」が引き起こしたものだ・・・・。
アイスランドの銀行が軒並み倒産する中、唯一、顧客の預金を守り切った銀行の経営者は女性たちだった。彼女たちは自分たちが理解できない金融商品には手を出さず、理解できるもののみに投資した。サブプライムローンのような怪しい金融商品に手を出さなかったのだ。投機的な活動を好み、ギャンブル依存症になりやすいのは、女性よりも男性の方が多い。これは男性ホルモンの作用によるもの。世界の金融危機を引き起こしているのも男性ホルモンの作用だと・・・・・。
その通りだと思う。
本編映像”アイスランドの女性リーダーたち”
以下は、私の主張。
グローバル資本主義システムが、投機的で、制御不能で、破滅的な暴走を引き起こしている根源的理由は、新古典派の経済理論がおかしいからだとこれまでもブログで書いてきた。新古典派経済学者がなぜおかしいのかといえば、その理由のいったんは経済学者が男ばかりだからだ。男は、新古典派モデルを信仰するピグマリオン症になりやすい。
以前ブログで経済学者のディアドラ・マクロフスキーの以下のような主張を紹介したことがあった。再掲する。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/7b48b14f7f47566c818f86a421f4de72
女性に経済学者が少ないのはなぜか? 実生活に根ざした現実世界に関心のある女の目から見れば、男の経済学者たちのやっている数学モデル作りの作業は、単なる「お砂場遊び」にしか見えないからなのだ。経済学をまともにするには、女性経済学者の割合を増やすことだろう。
マイケル・ムーアが世界各国を侵略しに行って、そこから「戦利品」を米国に持ちかえるというストーリー。持ち帰る戦利品の中には、スロベニアの大学授業料無償化、ポルトガルの麻薬合法化、フィンランドの教育改革・・・・など盛りだくさん。これらの戦利品はサンダース候補の公約の中にも相当程度取り込まれている。ムーアの「侵略」の成果は、アメリカの若者に浸透してきたといえるだろう。
最初のうち(イタリア編、フランス編)は、「Sicko と似たつくりだな、だんだんムーアもネタ切れかな・・・・」などと思って観ていたが、映画は後半になるほどに面白くなっていく。とくに感動的だったのは、チュニジア編とアイスランド編だった。
最後の方で登場したアイスランド編の動画の断片がyoutubeにあったので貼り付けておく。アイスランドは世界でももっとも女性が活躍している度合いの高い国であるが、唯一、金融部門だけは男性社会だった。そして、2007年のアイスランドの金融危機は「男性ホルモン」が引き起こしたものだ・・・・。
アイスランドの銀行が軒並み倒産する中、唯一、顧客の預金を守り切った銀行の経営者は女性たちだった。彼女たちは自分たちが理解できない金融商品には手を出さず、理解できるもののみに投資した。サブプライムローンのような怪しい金融商品に手を出さなかったのだ。投機的な活動を好み、ギャンブル依存症になりやすいのは、女性よりも男性の方が多い。これは男性ホルモンの作用によるもの。世界の金融危機を引き起こしているのも男性ホルモンの作用だと・・・・・。
その通りだと思う。
本編映像”アイスランドの女性リーダーたち”
以下は、私の主張。
グローバル資本主義システムが、投機的で、制御不能で、破滅的な暴走を引き起こしている根源的理由は、新古典派の経済理論がおかしいからだとこれまでもブログで書いてきた。新古典派経済学者がなぜおかしいのかといえば、その理由のいったんは経済学者が男ばかりだからだ。男は、新古典派モデルを信仰するピグマリオン症になりやすい。
以前ブログで経済学者のディアドラ・マクロフスキーの以下のような主張を紹介したことがあった。再掲する。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/7b48b14f7f47566c818f86a421f4de72
経済学者たちは、その多くは男たちだが、機械的な方法論は正しく、したがって正しい結果を導いていると確信している。・・・・・・彼らはマッチョ的な業績に満足し、大得意である。
ここに女性の出番がある。・・・どうすれば経済学を現実世界に引き戻せるかと。・・・・男性はつねに女性から笑われることを恐れる。だから、みんなで一緒になって男たちの尊大な態度を笑ってやりましょう。
ここに女性の出番がある。・・・どうすれば経済学を現実世界に引き戻せるかと。・・・・男性はつねに女性から笑われることを恐れる。だから、みんなで一緒になって男たちの尊大な態度を笑ってやりましょう。
女性に経済学者が少ないのはなぜか? 実生活に根ざした現実世界に関心のある女の目から見れば、男の経済学者たちのやっている数学モデル作りの作業は、単なる「お砂場遊び」にしか見えないからなのだ。経済学をまともにするには、女性経済学者の割合を増やすことだろう。
学校での経済学の授業は教科書なしだったためかただ眠くてしょうもないだけでしたけど。
新古典派のモデルそのものが、空理空論で雲をつかむような実態のないもので、あの手の玩具を好むのは男の方が多いと思います。
理系分野の「リケ女」は増えていますが、経済学は女性研究者の割合がもっとも低い分野の一つであることは間違いありません。理系分野は実験する対象の実態がありますが、経済学のモデルには実態がないからだからだと思います。
まあ、男のような女もいますし、女のような男もいますのでもちろん一概には言えませんが・・・・。
新古典派経済学が生まれたのは1870年代だと思います。手もとの教科書によれば、産業革命で大きく先行して世界の工場となったイギリスに対して、ドイツとアメリカの生産力が追いついて起きた1873年恐慌(事実上の最初の世界恐慌としての「19世紀末大不況」)の時期にあたります。
かっての「自由競争」の時代から大企業・大資本による「寡占競争」の時代に移行して重化学工業が飛躍的に発展し、グローバルな市場を争う帝国主義となってゆく時代に、新古典派経済学は誕生し発展したことになります。
この時期に産業資本が金融資本化して、巨大な金融資本が世界の原理的中心についたように思われます(ヒルファディングとレーニンのうろ覚えの受け売りです)。
ヘーゲルによれば、方法は「内容の形式」だとのことだそうで、一見して内容に立ち入らず方法論に終始するように思える新古典派経済学は、じつは、巨大金融資本という内容の形式を、方法として映し出したものではないでしょうか。
つまり「限界革命」とは、はたらいてつくりだす価値の、計算と思惑で交換取引する効用への、すなわち金融への転化だと。
さすれば、国民全体を戦争経済に総動員する「総力戦」を第一次世界大戦において世界史上はじめて登場させた、帝国主義の正体である巨大金融資本にジェンダー原理が見られるとすれば、それが新古典派経済学に反映感染していることになるかと思います。
偉大な女性経済学者といえば、ジョーン・ロビンソンの名前しか思いつきませんでしたけれど、『女性経済学者群像 ー アダム・スミスを継ぐ卓越した八人』(和訳:御茶の水書房、2008年)という本があって、ジェーン・マーセット、ハリエット・マーティノゥ、ミリセント・フォーセット、ローザ・ルクセンブルク、ビアトリス・ポッター・ウェブ、ジョーン・ロビンソン、イルマ・エーデルマン、バーバラ・バーグマンという名前が並んでいるとのことです。ローザ・ルクセンブルク!
最近のお二人を含めてこの方々は、力学モデルをお人形にしたり、砂場でしゃがみ込んで遊ぶことからは縁遠いように思えます。
水野和夫さんの「ゼロ成長社会へのソフトランディング」というのは、あくまで「成長」という枠組みの中で発想しているわけですから、すべてを貨幣量に換算する計算の世界にまだしゃがみ込んだものだと思います。
オカネが人間に対する支配の表象となった「資本主義」を根底的にリストラすることを「リーマン・ショック」後の現代において考えるのが経済学の真の課題であろうと想像しますけれど、まず方法より内容が?
ブログでこの手の議論をしだすと、また新古典派のエキセントリックな方々から攻撃を受けそうですね。彼らの攻撃性そのものが、新古典派の男性原理を証明していることにしかなりませんが。
弁護士の伊藤和子さんが、典型的な攻撃的マッチョ経済学者といえる池田信夫氏にネット上で名誉棄損されたとして、池田氏を訴える裁判を起こしたそうです。
拍手です。応援したいです。以下参照。
http://worldhumanrights.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5487.html
>女性経済学者群像 ー アダム・スミスを継ぐ卓越した八人』(和訳:御茶の水書房、2008年)
この本未読でした。ぜひ読みたいと思います。イルマ・エーデルマン、バーバラ・バーグマンって、どんな業績の経済学者なのか私も知りません。ぜひ勉強したいです。
実際、女性経済学者などがもっと多くなれば、世界は変わると思います。
余談ですが、宇沢弘文先生の社会的共通資本の考え方はジョーン・ロビンソンの経済学を継承しています。
現在、宇沢先生の評伝を書いていジャーナリストの佐々木実さんは、「宇沢弘文:資本主義の探求者」(『G2』vol.18. 講談社MOOK)の中で、ケネス・アローやロバート・ソローにインタビューをして宇沢経済学の源流を探っています。
宇沢先生、アメリカでケネス・アローと一緒に研究していたころは、それこそモデルづくりを探求する「マッチョな業績」を追及していましたが、日本に帰って『自動車の社会的費用』などを書いて、社会的共通資本の研究を始めてから、研究スタイルは大きく変わったと言われています。
アローは、それを「ビッグ・チェンジ」と呼び、ヒロ(宇沢先生のこと)はなぜ変化したのかどうしてもわからないと述べています。佐々木実さんのインタビューに答えて、ケネス・アローは次のような問いを発しています。
「ヒロに関して、私にはどうしtもわからないことが一つあるんだが・・・・・彼はどういう経緯で環境の問題に強い関心をもつようになったんでしょうかね。『自動車の社会的費用』というヒロの本がありますね。私はこの本は非常にすばらしい著作だと考えているんだが・・・・・」
アローは宇沢先生の「ビッグ・チェンジ」の理由を今でも疑問に思っているようなのです。
これは佐々木さんと私で意見の一致するところですが、宇沢先生にビッグ・チェンジをもたらしたのは、ジョーン・ロビンソンとの交流でした。
ケインズの弟子でもあったジョーン・ロビンソンは、単に完全雇用を実現すればよいという発想のケインズ経済学を批判し、何のための財政支出か、何のための雇用かという根源的な問題を問い続けました。
そのロビンソンの問に対する回答として、宇沢先生が探求し続けたのが社会的共通資本の理論だったわけです。
モデルに特化した方法で経済学を勉強するのは、学生にとっても有害だと思います。モデルはあくまでもモデルです。そんなものに極度に拘りすぎたら頭が確実におかしくなります。あまり言いたくありませんけど、経済学については特にそうです。
まともに議論することもできず、論争相手の母校や所属する組織を誹謗中傷することしかできないような人物は相手にしないことが肝要と思います。十分に注意ください。
動画の字幕のなかで、アイスランドの女性社会参加に関する法制が「若い男性にも機会をあたえる」ものである、というコメントがなされ、また企業経営への女性参画によって「出資者にもチェックが入る」と、説明されていることに目を丸くしました。
1873年5月からのウィーン証券取引所のバブル崩壊と銀行破綻、9月の米国投資銀行破綻に引き続くニューヨーク証券取引所の一時閉鎖、この資本主義はじめての世界恐慌の発生をはさんで新古典派経済学誕生の三本の矢、メンガー(1871年)、ジェヴォンズ(1871年)、ワルラス(1984年)がはなたれたわけです。
ある意味で「反古典派」と言うべきかと思われる市場原理による価値論、「限界効用理論」を確立した新古典派経済学は、資本主義第2回目の1929年世界恐慌と、それに影響を受けなかったソ連への資本主義の対抗の必要性から生まれたケインズ主義経済学を1970年代に葬り、新古典派経済学誕生から100年後に「新」新古典派経済学となったとのことです。
そして1980年代以降は資本主義国の政策原理の地位を獲得して、冷戦崩壊以降はグローバルな支配的思想すなわち「グローバル支配のための思想」となった、という理解をしております。御用学問と言ってはふるめかしい感じがしますけれど、エキセントリックな方がどうおっしゃろうと、現実に対する懐疑と批判の精神をピギュマリオン王に売り渡しては理論は終わりです。
この投資回収効率至上主義原理は、いわば「金融市場(資本市場)原理主義」となって1990年代から企業経営を席巻したのみならず、2000年以降は社会全般を支配する原理となりました。これが、水野和夫さん的に言えば「資本の反革命」、渡辺治氏がデヴィッド・ハーヴェイの論点として指摘していたと記憶する「階級権力の復興(あるいは創設)」であると想像します。
おそらく啓蒙主義的な自然法思想や合理的科学主義に棹さしていたであろう古典派経済学の原理を、抽象的かつ機械論的に純化定量化した新古典派経済学の方法論的個人原理主義が、現代においてはかの「自己責任」思想となって蔓延し社会の靱帯を粉々に断ち切りました。
これを背景にして、市場におけるパレート最適に参画できない存在を排除する、むしろ排除によって均衡を成立させる、という新古典派経済学の原理が、いまや「生成原理」に帰結したかに思えます。
アダム・スミスには色濃く存在し、むしろ彼の発想の核にあったと思われるものが、新古典派経済学においては無色透明に、いえ完全に消え去っています。それは、社会は「人間の人間に対する支配」によって成立する、という体感的にまたおそらく「科学的に」疑いようのない認識です。
しかし、売り手と買い手お互いの限界効用がクロスすることを原理とする新古典派経済学においては、一方の他方に対する支配が介在することは絶対にあり得ません。すべては自由に選択される、化は自己責任、と。
・・・と、考えてきまして「新古典派経済学」の内包する原理を「男性的、マッチョ的優勝劣敗支配論」として、女性的原理に帰属させることができそうな「生活原理、共生原理」と対置することに少し躊躇を感じはじめました。
アイスランドの女性たちが示唆していることは「男女を含む人間の平等原理」であり、資本市場における証券株式売買に化体される仮想的自由平等原理を背景として、「投資効率原理主義」というオカネの力で男女を含む人間の労働を支配し「ムダ」を排除しようとする株主主権に対する批判であると思います。素晴らしい!
しかし、新古典派経済学者の40%を女性にしたとして・・・ジャネット・イエレンが増えるだけであれば米欧日の金融破綻をさらに手もとにたぐり寄せることになり、まさかビクトリア・ヌーランドの経済学者版ばかりになっては対ロ挑発による世界最終戦争という「経済政策」に走るでしょう。かのアイスランドでは経済学と経済学者はどのようであったのでしょう。
雪の女王の国だったのかもしれないアイスランドから、経済学にルネサンスをもたらす経済学者があらわれますように。
☆☆☆
さて、盛り上がる「真田丸」にちなんで、精一杯のひと言を。
長州といえば、身に毒のある魚の代表であるフグに、血なまぐさい靖国招魂社建国神話しか思いうかびませんのに、信州は「蕎麦に仏に月」。そのお月さまからすぐに浮かぶ可愛らしい名前のお菓子屋さんのくるみのお菓子が素朴風雅でとてもおいしいのに驚きました。
佐久ならぬ小諸の城址のお蕎麦屋さんの「くるみそば」がとてもおいしいのは知っていましたけれど、こちらはかすかにあまい絶妙の餡をそば粉の皮でくるみ、粒のクルミをまぶしてあります。
なんと武者小路実篤が、子供のころから知っていたという上田のお菓子さんのために、彼らしく飾り気なくかわいらしいキャッチコピーをのこしているそうです。
関さんのコメントでいただきましたように、あたらしいものを生み出すのは「根源的な問い」であろうと、ジョーン・ロビンソンのお話によって胸からお腹におちました。ありがとうございます。
マイケル・ポランニーにショックをあたえたというブハーリンとの議論について「ちくま学芸文庫」の訳者解説で読んだことが忘れられません。
カール・マルクスは、商品とは何かという根源的な問いによって考えたように想像しますけれど、それが御用学問に化すると・・・それを失うのですね。
ジョーン・ロビンソンの根源的な問いかけを受けとめた宇沢先生の社会的共通資本の理論を、関さんがさらに根源的なところから時代のはるか先をゆくあたらしいものになさってゆくことを。
本記事への最初の弊コメントにあります、ヘーゲルが「方法とは内容の形式」であると言った、ということのソースが、たしか手もとの新古典派経済学についての本にあったと思うのですが見つけることができません。ちなみに:
日本ヘーゲル学会第11回研究大会(2010/6ー19、20法政大学)における、ヘーゲル『大論理学』に関する、新潟大学の小林裕明氏の発表に次のような箇所がありました。 http://hegel.jp/programs/program_11th.pdf
ヘーゲルが、上述の「内容の始元」と「思惟の始元」両者の展開を本来的に述べているのは、「絶対的理念」においてである。ここで、学の“ 内容 “ に対して、その ” 形式 “ (「方法」)が語られ、両者の統一をもって学は完結する。
また、第2回目の弊コメントにおける新古典派経済学の「排除による均衡原理」のソースは、佐々木 崇暉氏の「市場経済と調整原理 ー新古典派とレギュラシオン学派の比較を中心ー」(静岡県立大学 短期大学部 研究紀要第10号 1996年度 市場経済と調整原理)です。
 http://oshika.u-shizuoka-ken.ac.jp/outline/research/002/upimg/10_07.pdf
このような認識は新古典派経済学批判において一般的なものかと思っていましたら、手もとにある幾つかの参照文献には示されておりませんでしたのであわてて、おくればせながらソースとして報告いたします。なお、参照箇所を佐々木崇暉氏による上記の論文から以下に引用します。
第一に、すべての市場参加者がパレート最適点において満足するとみなすのは誤りであり、 市場参加者の一部が市場関係から「排除」されると見た方がより現実的である。
消費者は所得制約によって、自らの欲求の極大化を断念せざるを得ない。市場経済の論理は「均衡の論理」というよりは、むしろ冷徹な「排除の論理」によって調節されるとみるべきである 。
供給過剰の場合は価格を下落させることにより競争力を持たない企業を市場から排除し、調節を行う。企業は市場から排除される不安に恐れつつ、より効率的な生産へと動機づけられていくて。弱小企業は押しつぶされ、有利な企業はますます成長してゆく。
競争とは、本質的に「排除の論理」を含んでおり、均衡へ向かう「静態的」な競争というのはそ もそも形容矛盾である。競争は不完全競争を必然化させ、特定の企業による価格操作が可能になり、供給関数の概念そのものが意味を持たなくなる。
かくのごとき「排除の論理」が作用する要因は市場社会そのものの中に内在している。
市場社会とは社会的生産の全体が相互に独立した私的生産によって行われている社会であり、かつ 私的生産が社会的に有意味であるかどうかは商品交換によって評価される。
そこでは、他者の生産物を手に入れるためには、それに先だって、自己の所有する商品を価値実現しなければならない 。つまり自己の商品を貨幣に置き換えることができるものだけが、自己の欲求を満たすことができるのである。
それ故、市場社会は、新古典派が描くように自己調整的でも、安定的でもない。むしろたえず不均衡で、不安定である。市場の安定化を図るためには、排除される消費者や生産者を内部化していくための諸制度や外部の力(政治、規範、習慣など)が必要になってくるのである。
☆☆☆
解析力学を経済学に投影した装いを持った形而上学である新古典派経済学は、現代の支配イデオロギーとして、現実の「上部構造」であるわけです。
そこで、それに対応する「下部構造」(おそらく金融寡頭制資本主義)と一体の社会思想であり「人間論」であると認識して、それを理論的に、また現実的に克服することに取り組むべきであろうと想像します。
さらに追記を恐縮に思います。先のソースに関する弊コメントに引用しました、佐々木崇暉氏の前掲論文(P73)にて言及されている「排除の論理」には注記が付されており、「石塚良次著『市場システムと物象化』(『情況』8月号、情況出版、1990年、所収)153頁」とあります。
残念ながらこの論文を参照することはできませんでした。以上取り急ぎ報告のみにて失礼をいたします。