一昨年から、有志で資金を出し合って県外に流出していた赤松小三郎の遺品の買い取り作業をすすめてきた。昨年度は小三郎所有のミニエー銃、八分儀、弾薬箱の三品を買い取って上田市立博物館に寄託した。買い取り作業もこれで終わりかと思っていたところ、さらに小三郎の所有と思われる貴重な品々が見つかり、このたび買い取りを行った。来年には博物館に寄託するつもりであるが、現在、一時的に私の所有物となっているので紹介したい。
上田藩士の芦田惟敬が書き写した測量学の写本と測量道具一式と伝わっていたものである。一枚目の写真と二枚目の写真は、ちょうどペリー来航1年前の嘉永5年に、芦田惟敬が筆写した測量術の写本である。この写本とともに測量器具の一式があった。
この「芦田惟敬」こそ改名前の赤松小三郎のことなのである。所有者の方が、拙著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社)を読んで、芦田惟敬が赤松小三郎と同一人物だと気づき、打診して下さったのだ。上田市立博物館の館長にも立ち会ってもらい、この写本の筆跡が確かに赤松小三郎のものであることを確認した。
左上の写真は、今日で言うところの「トランシット」に相当する測量器具である。初めて見た時には、あまりの精巧さに、にわかに江戸時代の国産品とは思えなかった。江戸時代の末期には、すでに近代化の歩みが着実に始まっていたことがうかがわれる。
赤松小三郎が、これらの器具を使って、藩士たちに手ほどきをしていたのだろう。余談だが、老中を務めた藩主の松平忠固の四男の松平忠厚は、廃藩置県後にアメリカに渡り、アメリカにおいて新しい測量器具を発明してその名を全米に轟かせた。明治の初期から、測量学の世界の最先端で活躍した忠厚のような人物が出たのも、これらの測量器具を見ていると頷ける。
松平忠厚も、赤松小三郎から測量学の手ほどきを受けていたかも知れないが、残念ながら今のところそれを裏付ける史料は見つかっていない。
上田藩士の芦田惟敬が書き写した測量学の写本と測量道具一式と伝わっていたものである。一枚目の写真と二枚目の写真は、ちょうどペリー来航1年前の嘉永5年に、芦田惟敬が筆写した測量術の写本である。この写本とともに測量器具の一式があった。
この「芦田惟敬」こそ改名前の赤松小三郎のことなのである。所有者の方が、拙著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社)を読んで、芦田惟敬が赤松小三郎と同一人物だと気づき、打診して下さったのだ。上田市立博物館の館長にも立ち会ってもらい、この写本の筆跡が確かに赤松小三郎のものであることを確認した。
左上の写真は、今日で言うところの「トランシット」に相当する測量器具である。初めて見た時には、あまりの精巧さに、にわかに江戸時代の国産品とは思えなかった。江戸時代の末期には、すでに近代化の歩みが着実に始まっていたことがうかがわれる。
赤松小三郎が、これらの器具を使って、藩士たちに手ほどきをしていたのだろう。余談だが、老中を務めた藩主の松平忠固の四男の松平忠厚は、廃藩置県後にアメリカに渡り、アメリカにおいて新しい測量器具を発明してその名を全米に轟かせた。明治の初期から、測量学の世界の最先端で活躍した忠厚のような人物が出たのも、これらの測量器具を見ていると頷ける。
松平忠厚も、赤松小三郎から測量学の手ほどきを受けていたかも知れないが、残念ながら今のところそれを裏付ける史料は見つかっていない。
この測量術、測量器具に関しては、赤松の数学・蘭学の師匠である、内田五観と瑪得瑪弟加(マテマテカ)塾が深く関わるかも知れません。当時の習慣として、OBと出身塾との関係は終生続くようなので。国史大辞典「内田五観」の項に、こういう記述があります。
「内田はまた測量にも通じ、嘉永年間(一八四八―五四)、江川太郎左衛門が伊豆・相模の海岸測量を行なった際には、その下にあって大きな功績を挙げた。」
ちょうど、赤松が内田の主催するマテマテカ塾(江戸)に入門したのが、1848(嘉永元)年ですから、赤松が塾の大型ロジェクトに参加することは自然です。そして実際にそこで測量実務の経験を積んだのであれば、それを弟子たちにコーチングすることは容易だと推論できます。ご参考になれば。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%8F%8B%E4%BA%94%E9%83%8E
『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯―幕末明治のテクノクラート』 (中公新書)
この測量学の写本は嘉永5年なので、小三郎がマテマテカ塾に在籍していたときに筆写したもので、間違いないかと思います。当時名乗っていた諱の「惟敬」とは、師匠の内田弥太郎を敬愛しますという意味のようです。小三郎が内田弥太郎の数学能力に心酔し、深く尊敬していたことは間違いないです。写真の測量器具のいくつかも、内田塾当時から愛用していた品ではないかと思われます。
ワタンさま
>赤松小三郎は、小野友五郎とは関係なかつたのでせうか。
赤松小三郎と小野友五郎は長崎海軍伝習所でともに学んだ友人で、その友情は生涯続いていたようです。小三郎が京都で暗殺する数日前に、別れの挨拶に小三郎が小野友五郎を訪問し、それが小野友五郎の日記に記されています。
長崎時代の友情は、京都時代も続いていたことがうかがえます。
鳴海風著、関屋敏隆画の『咸臨丸にかけた夢: 幕末の数学者・小野友五郎の挑戦』(くもん出版)はよい本なので、外国にゐる九歳の孫に与へるやう、息子に勧めたところでした。
それにしても、あの咸臨丸に、木村、勝、福澤、小野と、当時の日本を圧縮したやうな人間が蝟集したのですね。
赤松小三郎が乗船できていれば、どんなに良かったか・・・。本人が希望したのに、誰が妨害したのか、かわいそうなことでした。
ながらくご無沙汰しています。今日の毎日新聞に、関さんの本の書評が大きく載っています。これでだいぶ読者も増えますね。この本は、上田に縁のある関さんでなければ書けなかったものでしょう。おめでとうございます。
塩沢由典
P.S. 実は関さんのe-メールアドレスに上記をお送りしたのですが、アドレスを変えられたのか、返送されてきてしまいました。
この間、歴史の研究ばかりしていて、まったくご無沙汰しており申し訳ございません。
本の多くは政治過程の分析に割かれていますが、大英帝国の自由貿易帝国主義、日本の関税自主権と工業化の関連など、部分的に貿易論の論点も盛り込まれています。
明治維新によって急速に工業化が進んだように言われてますが、明治維新のせいで工業化は遅れたのが実態で、また明治後に発達した技術が輸出産業になったわけはなく、一貫して江戸の技術である生糸が近代日本の輸出を牽引してたのだ・・・といった論点です。経済史の研究者の方々にも興味を持っていただければと思っております。
guanliangji@gmail.com
で届きます。何卒よろしくお願い申し上げます。