束稲山と書いて、「たばしねやま」と読むらしい。
仙台方向から東北道を北上して、盛岡方面に向かうとき、
必ずこの山が右手にあらわれます。
何度も見ているうちに、その山体のなだらかさ、姿形に強く惹かれるようになった。
というか、不思議とランドマークとしての力強さ、
のようなものを感じるようになってきたんですね。
それで、ちょっと調べてみたら、
古歌にも謳われているサクラの名所であり、
平泉藤原氏にとって、ゆかりの深い山々であったことがわかってきた。
ちょうどこの山々は、その裾野を北上川が流れ、
対岸側に平泉の都市機能が広がっていたのですね。
藤原氏の居館は水利としての北上川に面して建てられていて、
その奥州の都から、仰ぎ見る南方の山として、この束稲山は存在していたようです。
居館の北方側には中尊寺の伽藍が高台に築かれている、
というような地理関係になっています。
たぶん、北上川を上ってくる平泉訪問者の船は、
この束稲山を目印に見ながら奥州の都に入る準備を船上でしたことでしょうね。
義経の時代にこの地を訪れていたという、西行の歌。
陸奥の国に平泉に向かひて、たはしねと申す山の侍(はべる)に
異木は少き様に桜の限り見えて、花の咲きたりけるを見て詠める
きゝもせず たはしね山の桜花
吉野の外に かゝるべしとは
という名句があります。
京都の吉野と並び称されるほどのサクラの名所として
同時代人に強く印象されていた様子が、このように書き残されているのです。
頼朝の大軍が藤原氏を滅ぼした古戦場・衣川もほど近い。
独立国家、平泉藤原氏の都という歴史背景にとって
この束稲山って、すごく存在感があったに違いないのです。
山岳というのは、自然信仰の対象であったのですが、
立地的にこの山は、まさにそういう雰囲気を漂わせています。
いろいろと東北の歴史を知れば知るほど、
こういう山河からも、その時代人の感じ方とか、伝わってくる部分があって、
底の深い楽しみを感じております。
自然だけではなく、ひとが生きた様が、まざまざと感じられるなんて、
実に楽しい気持ち。
束稲山、見るたびに深まってくる印象があります。
っていうことで、本日は歴史雑感編でした。ではでは。