江戸期の経済活動について興味が高くなってきています。
盛岡市を先日、訪れた際、
旧市街の商家の成り立ちを聞く機会がありました。
江戸期の旺盛な経済活動を支えていたのは、
複式簿記を操っていた近江商人たちの活動であり、
いろいろな部門で、商機を見いだして、ビジネスを展開したかれらの
活動が、ベースになって歴史は展開していると感じさせられた次第。
商人たちの歴史というのは、あまり見る機会がない、と思います。
しかし、指摘されてみると、今日に至る日本の活発な経済活動で、
商人たちの動きが顧慮されていない、というのはおかしい。
秀吉などは商業の発展を自らの政権運営の基盤に据えていたに違いなく、
その幕僚には、小西行長などという有力商業資本とおぼしき人物もいたし、
石田三成という人物も、近江出身であり、
秀吉政権成立時の活発な軍事運動を支えた兵站輸送など、
相当な数学的能力で、運営していたことは想定される。
秀吉によって九州制圧の夢を絶たれ、経済的に行き詰まった薩摩藩に
藩経済の運営方法を指南した、という辺り、
石田三成という人物も、そのような近江商人的気質のなかにいた人物だと思われます。
こうした近江商人たちは
場所請負制を取っていた一時期の蝦夷地の漁業運営をも手がけていたそうで、
きっと、歴史の裏舞台で、さまざまな決定的役割を果たしたに違いないと思うのです。
一度、蝦夷地の場所請負制のことを書物で見たことがあるのですが、
そもそもなぜ、幕府が直轄領にした蝦夷地の経済の中心であった漁業を
商人たちにゆだねたのか。
要するに幕府の役人たちが運営してみたら、まったく赤字の連続だったのですね。
そのため、効率よく利益を生み出せるように商人たちに直接
「場所を請け負う」形にしたんだそうです。
その決算報告が連年、文書として残されているワケなのですが、
さすが、商売人たちですね、こちらでもきれいに若干の赤字計上になっているのです。
それはそうだと思います。かれらにとって、
幕府のために汗水垂らして黒字をあげて尽くす必然性はない。
「お役人様たちでも赤字なんですから、わたしどもではとても・・・」
などといいつつ、その実、継続して場所請負が続けられるように
抜け目なく賄賂などを配って、継続してきたに相違ないのです。
そのようにして蓄積した富を幕末に至る商業資本の蓄積にしてきたのでしょう。
明治政府側に資金提供した旧財閥系資本とはそういうものだったのだろうと思います。
少なくとも、番頭・手代といった商業の階層的ネットワークで、
どんどん、独立自営していきながら、そのネットワークが生み出す
「情報力」によって、機敏に経済をリードしていただろうことは推定されます。
盛岡は南部藩の首都ですが、
北上川の物流ネットワークで江戸への流通ルートが確保されていて、
そのような全国経済に参加していたことでしょう。
天明の大飢饉の引き金になったとされる
八戸周辺での大豆生産への過剰な傾斜というのも、
勃興しつつあった関東・野田の醤油生産活動への原材料供給が発端。
そうした経済活動は、近江商人たちのネットワークの中で
「商機」として見いだされた側面が生み出したことだと思います。
盛岡の旧市街に展開している商家の
「町家」の家並みの様子を見ながら、
そんな想念が思い起こされていました。
そういった「商人の歴史」みたいなものを調べてみたいと思っています。
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