土井敏邦監督の新作『〝私〟を生きる』は、99年の国旗・国歌法制定、石原都知事就任を経て、都教委による教員に対する「日の丸」「君が代」の強要=〈10・23通達〉以降の趨勢に抗った三人の教師たちが、どのようにたたかったかを描いている。副校長が隣に座って監視する中での卒業式での「君が代」起立の強制が、「中国で日本兵が民間人を虐殺することを強制させられた体験に繋がる」と思ったという根津公子さんの実感、「嘘をついて生きていけない」という言葉が、胸に刺さる。私たちは鈍感になってはいないか。
「少数派」に表現の自由を認めない、傲慢かつ感情的で論理性のまったくない「保守」の自称「一般市民」たちは、おそらくこの国を覆う「不安」に支配され、あるいは彼ら自身が受け止めて逆らえない「現実」に疑義を呈する想像力を持たないために、無自覚に「少数派の排斥」に手を貸している。授業で従軍慰安婦や同性愛の問題を取り上げることさえ禁じられ、つるし上げを食らうという日本の実態、「反抗分子」をやめさせるために、緊急保護者会を開き、子供たちを誘導しようとする愚かな人たちに囲まれ、それでも諦めない人たちの姿は、この国の多くの「少数派」がどこでも晒されている現実だ。
教師にも権利がある。教師たちも「子供たちに教える権利」を奪われたということになるのだ。教員たちの言論の自由を奪い、意見をくみ上げることを法律で阻むことに、なんの意味があるのか。そもそも、強制されなければ敬うことのできない国旗や国歌など、意味がないではないか。
映画の中で取り上げられたお三方とも、尊敬できる人たちである。教員にも生徒にもひとしく人権はあるというのは、当たり前のことのはずだ。人間が作った最高の文化が「平和」である、という土肥先生の言葉は素敵だ。お二人の女性教員は一度は自殺を考えるほど追い詰められた。そこから立ち直り、自ら振り返って「不幸でなくなる」という体験の道筋を伝えようとする根津さんの姿が眩しい。
日本の保守化・右傾化はそのまま国民を愚鈍にしている。こんな国だから、滅びに向かっているのだとよくわかる。少数派に対する「いじめ」を許容して恥じない社会。橋下新大阪市長の撒き散らす教育改悪へ向かう喧伝が政治的に利用されようとしている今、この映画の存在意義は大きい。観て、怒りに震える。同時に、励まされる。ドキュメンタリーというものの果たすべき役割を確実に満身に湛えた、いま、観るべき、見せるべき映画である。
http://www.doi-toshikuni.net/j/ikiru/index.html
「少数派」に表現の自由を認めない、傲慢かつ感情的で論理性のまったくない「保守」の自称「一般市民」たちは、おそらくこの国を覆う「不安」に支配され、あるいは彼ら自身が受け止めて逆らえない「現実」に疑義を呈する想像力を持たないために、無自覚に「少数派の排斥」に手を貸している。授業で従軍慰安婦や同性愛の問題を取り上げることさえ禁じられ、つるし上げを食らうという日本の実態、「反抗分子」をやめさせるために、緊急保護者会を開き、子供たちを誘導しようとする愚かな人たちに囲まれ、それでも諦めない人たちの姿は、この国の多くの「少数派」がどこでも晒されている現実だ。
教師にも権利がある。教師たちも「子供たちに教える権利」を奪われたということになるのだ。教員たちの言論の自由を奪い、意見をくみ上げることを法律で阻むことに、なんの意味があるのか。そもそも、強制されなければ敬うことのできない国旗や国歌など、意味がないではないか。
映画の中で取り上げられたお三方とも、尊敬できる人たちである。教員にも生徒にもひとしく人権はあるというのは、当たり前のことのはずだ。人間が作った最高の文化が「平和」である、という土肥先生の言葉は素敵だ。お二人の女性教員は一度は自殺を考えるほど追い詰められた。そこから立ち直り、自ら振り返って「不幸でなくなる」という体験の道筋を伝えようとする根津さんの姿が眩しい。
日本の保守化・右傾化はそのまま国民を愚鈍にしている。こんな国だから、滅びに向かっているのだとよくわかる。少数派に対する「いじめ」を許容して恥じない社会。橋下新大阪市長の撒き散らす教育改悪へ向かう喧伝が政治的に利用されようとしている今、この映画の存在意義は大きい。観て、怒りに震える。同時に、励まされる。ドキュメンタリーというものの果たすべき役割を確実に満身に湛えた、いま、観るべき、見せるべき映画である。
http://www.doi-toshikuni.net/j/ikiru/index.html