まず、一つの大きな視点は、海外がこの国の変化をどうとらえているか、ということだ。日本の存在の仕方がずいぶん変わってしまう。逃げずにそこから考えなければならない。
過去の歴史の中から、このような事態がどのように認識されてゆくべきかのヒントを探ることも,決して忘れてはならない。歴史は決して繰り返さない。しかし物を見ることについて学ぶことは多い。
「内」を見ていても大したものは出てこないし、保守勢力の思うつぼだ。「外」と「過去」から、あらためて、ぶれない立ち位置を見つけていかなければならない。
この不当な「採決」を認めないことも大切だが、そんなに甘い話ではない。ほっといて近視眼のままでいたら,逆に「歴史の一コマ」にされてしまうということの本当の怖さをこそ、思い知るべきだろう。
「次の参議院で勝つ」のも大切だろうが、そんなにのんきに考えていていいのか。不当に成立させられた悪法の「適用」に対して、とことんたたかうことにシフトチェンジする必要もある。
そしてもっと恐ろしいのは、悪い方に「憲法を変える」という勢力の増大だ。
根本的な考え方をとりなおさなければならない。
で。
永井愛さんが「言論表現の自由のよって立つところ」でも触れてくれているが、この夏私は、「武力行使もしくは武力による威嚇を最終的な問題解決の手段」 とする考え方自体が、「言論表現の可能性をあらかじめ否定するもの」であるとして、憲法を介さないでも、直接関連づけて反対表明できないだろうかという提示をした。私たちはそこでずいぶん悩み、話し合った。このことは、さらに着実にまとめていきたいと思う。
この夏の劇作家協会のアピールをまとめる前、初期の頃の原稿で私が前文部分にあたるまとめに記したのは、以下の通りだ。あくまでもこれは私「個人」の言葉である。
…………………………
巷を賑わせている「集団的自衛権」についてですが、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」というのが、政府の説明でした。憲法9条の下では許されないとされてきた、「実力をもって阻止する」攻撃が許されることになります。
「攻撃をもって攻撃を阻止する」「戦争を止めるには別な戦争が必要である」ことを認めてしまうと、外交や、文民的な意見の表出を突き詰めることによって戦争への道を阻むこと、つまり戦争の危機に向けて、言論と「表現の自由」を行使する機会が、大幅に奪われてしまう可能性があります。
安倍首相は今年四月、安全保障関連法案を国会に提出する以前に、米議会で「夏までの成立」を約束しました。私たちは驚きました。この問題について国内での論議は必要ないのでしょうか。早くも言論と表現の自由が尊重されない状態が出現したのです。
過去の議論を無視した憲法の否定や、国民への説明の軽視は、私たち劇作家がよって立つ「言葉」の力を踏みにじることに他なりません。
…………………………
私たちは表現者として、こうした趨勢を阻止する必要を感じ、また、広く観客も含めた演劇に関わる皆さんの理解を求め、アピールを提出したのである。
当時のメモにはランダムに以下のようにも記している。
私たちは表現者です。表現する場を奪われることは、言論人としての死を意味します。
私たちの協会に、「人を殺すことが悪いとは思わない会員」は、いてもいいのかもしれません。
しかし協会全体では「人を殺さない」考えに譲っていただきたい。そちらが多数派であってほしいのです。
私たちは相手に死なれてしまっては、芝居を見てもらうこともできない。そして喧嘩さえできないのだから。
自民党の改憲法案は、明瞭に私たちの表現の自由に抵触しています。その一点だけで私たちは反対します。
自分たちの安全だけを考えるのでなければなおさら、戦争していることが「常態」である国と組むわけにはいかないでしょう。
与党勢力は議席数に物を言わせて、政権が『有事』だと思ったら戦争できるという仕組みになっていることを隠しません。
日本が戦争しやすくなるための「戦争法案」であることは間違いありません。
表現の自由、とは、たんに何か物を言うことができればいいということではありません。
民主主義は決して「多数決」ではありません。
選挙で多数の議席を得ていたとしても、彼らに憲法違反の法案を通す権限は与えられていないはずなのです。
自民党政権は若手研究会で、沖縄の二つの新聞を「潰す」という発言をした議員を辞任させることなく、放置しています。これは沖縄差別のみならず、報道の自由、国民の知る権利に対する侵害です。
「表現の自由」は、ここまで貶められているのです。
さて。
今日の現実に戻れば、次はほんとうに、沖縄だ。この勢いで辺野古も脅威にさらされるのは目に見えている。
しかし野党は何やってるんだ? 結局最後に「牛歩」っぽいことやったのは山本太郎一人だけ。「誰の為に政治やってるのか!外の声が聞こえないなら政治家なんかやめてしまえ!」。そりゃそうだろうが、ほとんどの野党連中も戦いきって満足してるみたいにも見える。そもそも野党議員たちはコメントも含めて「国民」「若い人」に頼りすぎ。一度は与党になった体験のある人たちは、そもそも政権時に何やってたんだよ、ということだ。「今日が終わりでなく始まりの始まり」(蓮舫)、それはそうだろう。しかし民主党、どん底から「野党第一党」として少しは浮上したと思っているのか、一部議員のどこか妙に嬉しそうにも見える瞬間は見逃さないぞ。
戦争ができる国にすることを「平和」「安全」と言い募ることの愚かさ。自民党の言っている「我が国の安全」の内実はどういうものか、誰も徹底的に問うてはいない。
本当は某国にいるかも知れなかった今日だが、日本にいてうんざりすることも大切なのだろうよ。議会傍聴の機会もあったが時間が合わず行けなかった。残念ではある。まあそれも仕方がない。「歴史の瞬間に立ち会った」みたいな「気分」にまとめられるのは御免とも、どこかで思うからだ。
井上ひさしさん、齋藤憐さん,山元清多さんらがいないことの寂しさが、今この瞬間には、先達への申し訳なさとして、襲いかかってくる。
はい。
気の早いドリアン助川はエッセイ(http://durian-sukegawa.com/)の中で「とにかく、次の選挙です。そして、書ける人は書くべきだし、歌える人は歌うべきです。そうそう。日本ペンクラブの会員になることになりました。ボクらのペンの力をなめるなよ。」と言う。まあそういう言い方をするしかないのはわかる。で、とにかく、今年、一足先に私もペンクラブに入ったので、それを知った彼の提言で、近々に某所で自主的ペンクラブ支部会?をするかもしれない。
写真は『バートルビーズ』、終景手前の、一瞬。
私たちは、立ち続ける。
過去の歴史の中から、このような事態がどのように認識されてゆくべきかのヒントを探ることも,決して忘れてはならない。歴史は決して繰り返さない。しかし物を見ることについて学ぶことは多い。
「内」を見ていても大したものは出てこないし、保守勢力の思うつぼだ。「外」と「過去」から、あらためて、ぶれない立ち位置を見つけていかなければならない。
この不当な「採決」を認めないことも大切だが、そんなに甘い話ではない。ほっといて近視眼のままでいたら,逆に「歴史の一コマ」にされてしまうということの本当の怖さをこそ、思い知るべきだろう。
「次の参議院で勝つ」のも大切だろうが、そんなにのんきに考えていていいのか。不当に成立させられた悪法の「適用」に対して、とことんたたかうことにシフトチェンジする必要もある。
そしてもっと恐ろしいのは、悪い方に「憲法を変える」という勢力の増大だ。
根本的な考え方をとりなおさなければならない。
で。
永井愛さんが「言論表現の自由のよって立つところ」でも触れてくれているが、この夏私は、「武力行使もしくは武力による威嚇を最終的な問題解決の手段」 とする考え方自体が、「言論表現の可能性をあらかじめ否定するもの」であるとして、憲法を介さないでも、直接関連づけて反対表明できないだろうかという提示をした。私たちはそこでずいぶん悩み、話し合った。このことは、さらに着実にまとめていきたいと思う。
この夏の劇作家協会のアピールをまとめる前、初期の頃の原稿で私が前文部分にあたるまとめに記したのは、以下の通りだ。あくまでもこれは私「個人」の言葉である。
…………………………
巷を賑わせている「集団的自衛権」についてですが、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」というのが、政府の説明でした。憲法9条の下では許されないとされてきた、「実力をもって阻止する」攻撃が許されることになります。
「攻撃をもって攻撃を阻止する」「戦争を止めるには別な戦争が必要である」ことを認めてしまうと、外交や、文民的な意見の表出を突き詰めることによって戦争への道を阻むこと、つまり戦争の危機に向けて、言論と「表現の自由」を行使する機会が、大幅に奪われてしまう可能性があります。
安倍首相は今年四月、安全保障関連法案を国会に提出する以前に、米議会で「夏までの成立」を約束しました。私たちは驚きました。この問題について国内での論議は必要ないのでしょうか。早くも言論と表現の自由が尊重されない状態が出現したのです。
過去の議論を無視した憲法の否定や、国民への説明の軽視は、私たち劇作家がよって立つ「言葉」の力を踏みにじることに他なりません。
…………………………
私たちは表現者として、こうした趨勢を阻止する必要を感じ、また、広く観客も含めた演劇に関わる皆さんの理解を求め、アピールを提出したのである。
当時のメモにはランダムに以下のようにも記している。
私たちは表現者です。表現する場を奪われることは、言論人としての死を意味します。
私たちの協会に、「人を殺すことが悪いとは思わない会員」は、いてもいいのかもしれません。
しかし協会全体では「人を殺さない」考えに譲っていただきたい。そちらが多数派であってほしいのです。
私たちは相手に死なれてしまっては、芝居を見てもらうこともできない。そして喧嘩さえできないのだから。
自民党の改憲法案は、明瞭に私たちの表現の自由に抵触しています。その一点だけで私たちは反対します。
自分たちの安全だけを考えるのでなければなおさら、戦争していることが「常態」である国と組むわけにはいかないでしょう。
与党勢力は議席数に物を言わせて、政権が『有事』だと思ったら戦争できるという仕組みになっていることを隠しません。
日本が戦争しやすくなるための「戦争法案」であることは間違いありません。
表現の自由、とは、たんに何か物を言うことができればいいということではありません。
民主主義は決して「多数決」ではありません。
選挙で多数の議席を得ていたとしても、彼らに憲法違反の法案を通す権限は与えられていないはずなのです。
自民党政権は若手研究会で、沖縄の二つの新聞を「潰す」という発言をした議員を辞任させることなく、放置しています。これは沖縄差別のみならず、報道の自由、国民の知る権利に対する侵害です。
「表現の自由」は、ここまで貶められているのです。
さて。
今日の現実に戻れば、次はほんとうに、沖縄だ。この勢いで辺野古も脅威にさらされるのは目に見えている。
しかし野党は何やってるんだ? 結局最後に「牛歩」っぽいことやったのは山本太郎一人だけ。「誰の為に政治やってるのか!外の声が聞こえないなら政治家なんかやめてしまえ!」。そりゃそうだろうが、ほとんどの野党連中も戦いきって満足してるみたいにも見える。そもそも野党議員たちはコメントも含めて「国民」「若い人」に頼りすぎ。一度は与党になった体験のある人たちは、そもそも政権時に何やってたんだよ、ということだ。「今日が終わりでなく始まりの始まり」(蓮舫)、それはそうだろう。しかし民主党、どん底から「野党第一党」として少しは浮上したと思っているのか、一部議員のどこか妙に嬉しそうにも見える瞬間は見逃さないぞ。
戦争ができる国にすることを「平和」「安全」と言い募ることの愚かさ。自民党の言っている「我が国の安全」の内実はどういうものか、誰も徹底的に問うてはいない。
本当は某国にいるかも知れなかった今日だが、日本にいてうんざりすることも大切なのだろうよ。議会傍聴の機会もあったが時間が合わず行けなかった。残念ではある。まあそれも仕方がない。「歴史の瞬間に立ち会った」みたいな「気分」にまとめられるのは御免とも、どこかで思うからだ。
井上ひさしさん、齋藤憐さん,山元清多さんらがいないことの寂しさが、今この瞬間には、先達への申し訳なさとして、襲いかかってくる。
はい。
気の早いドリアン助川はエッセイ(http://durian-sukegawa.com/)の中で「とにかく、次の選挙です。そして、書ける人は書くべきだし、歌える人は歌うべきです。そうそう。日本ペンクラブの会員になることになりました。ボクらのペンの力をなめるなよ。」と言う。まあそういう言い方をするしかないのはわかる。で、とにかく、今年、一足先に私もペンクラブに入ったので、それを知った彼の提言で、近々に某所で自主的ペンクラブ支部会?をするかもしれない。
写真は『バートルビーズ』、終景手前の、一瞬。
私たちは、立ち続ける。