米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設問題は、国と沖縄県の対立が続いていたが、4日に訴訟の「和解」が成立し、移設工事の一時中断が決まった、と報道されている。
報道によっては、国側が工事中断を決意した、という言い方も見られる。
もちろん、行政側がいったん辺野古の工事を中止した、というのは事実である。その事実は、大きい。ただただ、大きい。
辺野古の現場には、しばらくの間の平和が保証された。
しかし、首相は工事中止を指示したものの、「普天間基地撤廃には辺野古への移設が唯一の選択肢であるという国の判断は変わらない」としている。
国は沖縄県に辺野古沖の埋め立て承認の取り消しを撤回するよう求める「是正の指示」を出すとともに、沖縄県はこれを不服とする場合、国と地方の争いを調停する国地方係争処理委員会に審査を申し出るとしている。そのうえで、審査の結果に不服がある場合などは、沖縄県が「是正の指示」の取り消しを求める裁判を起こし、判決が確定したあとは双方が従うことを約束する、ということになっている。
つまり、県が「埋め立て承認」取り消しを譲らない意志を持っていても、1年以上後になると言われているが、裁判所の新しい判断が出れば、それに従わざるを得ないということになる。
国の側は「負けない」と思っている。
今回、沖縄県は「和解」を拒否することだってできたはずだ、という声があるが、その通りだとも、思う。
それに、そもそも、もちろん、「和解」じゃない。
何が問題といって、スラップ訴訟、行政マッチポンプ訴訟という前提自体が、問題なのだ。
しかし、いったん辺野古の工事を中止したということにより、束の間であっても訪れたこの安堵を、失いたいとも思わない。
ダブルバインドの苦しさである。
「双方の主張に変わりがない」ことも、報道では必ず言及されている。
「和解」という言葉がイメージさせる「円満解決」などではない。
しかも「和解」と言いながら、国の側が譲った、という印象の報道が多い。
しかし国の側は、工事停止は「一時的」、再開は有り得ると、露骨に考えているのだ。
裁判が長期化し、時間が経てば経つほど、体制側に有利になるのは当然である。
県民の多数が、現状を必ずしも楽観的に見ていないのは事実だが、世代交代による「風化」や、経済的な貧困の問題で真綿のように首を絞められる現実は、続いている。
また、マスコミが詳報すればするほど、やり方次第で「沖縄側がゴネている」という印象操作になるわけで、翁長知事もこれで背水の陣に立たされることになる。
自民党政権からすれば、沖縄県議選、参院選対策であるに過ぎない。
「揉めている」という印象が得策でないと考えたのだろう。
問題を先送りして、逃げたのだ。短期的な「争点隠し」である。
「よかった」という声などを引き出して、緩和しようとしている。
これは、安倍政権が、「改憲」まっしぐらに路線変更したということでもある。
それを考えるとぞっとする。
そもそも自民党憲法案は、国民主権の「憲法」のていを、なしていない。
辺野古を支援する活動をしている人たちが、それを持続しながらも、より多く、自民党の戦争参加志向と憲法改悪に対する「阻止」に向けての活動に参入できることになるなら、プラスになったと捉えるべきことである。
そもそも辺野古のたたかいじたいに、その意味はもともと備わっているのである。
報道によっては、国側が工事中断を決意した、という言い方も見られる。
もちろん、行政側がいったん辺野古の工事を中止した、というのは事実である。その事実は、大きい。ただただ、大きい。
辺野古の現場には、しばらくの間の平和が保証された。
しかし、首相は工事中止を指示したものの、「普天間基地撤廃には辺野古への移設が唯一の選択肢であるという国の判断は変わらない」としている。
国は沖縄県に辺野古沖の埋め立て承認の取り消しを撤回するよう求める「是正の指示」を出すとともに、沖縄県はこれを不服とする場合、国と地方の争いを調停する国地方係争処理委員会に審査を申し出るとしている。そのうえで、審査の結果に不服がある場合などは、沖縄県が「是正の指示」の取り消しを求める裁判を起こし、判決が確定したあとは双方が従うことを約束する、ということになっている。
つまり、県が「埋め立て承認」取り消しを譲らない意志を持っていても、1年以上後になると言われているが、裁判所の新しい判断が出れば、それに従わざるを得ないということになる。
国の側は「負けない」と思っている。
今回、沖縄県は「和解」を拒否することだってできたはずだ、という声があるが、その通りだとも、思う。
それに、そもそも、もちろん、「和解」じゃない。
何が問題といって、スラップ訴訟、行政マッチポンプ訴訟という前提自体が、問題なのだ。
しかし、いったん辺野古の工事を中止したということにより、束の間であっても訪れたこの安堵を、失いたいとも思わない。
ダブルバインドの苦しさである。
「双方の主張に変わりがない」ことも、報道では必ず言及されている。
「和解」という言葉がイメージさせる「円満解決」などではない。
しかも「和解」と言いながら、国の側が譲った、という印象の報道が多い。
しかし国の側は、工事停止は「一時的」、再開は有り得ると、露骨に考えているのだ。
裁判が長期化し、時間が経てば経つほど、体制側に有利になるのは当然である。
県民の多数が、現状を必ずしも楽観的に見ていないのは事実だが、世代交代による「風化」や、経済的な貧困の問題で真綿のように首を絞められる現実は、続いている。
また、マスコミが詳報すればするほど、やり方次第で「沖縄側がゴネている」という印象操作になるわけで、翁長知事もこれで背水の陣に立たされることになる。
自民党政権からすれば、沖縄県議選、参院選対策であるに過ぎない。
「揉めている」という印象が得策でないと考えたのだろう。
問題を先送りして、逃げたのだ。短期的な「争点隠し」である。
「よかった」という声などを引き出して、緩和しようとしている。
これは、安倍政権が、「改憲」まっしぐらに路線変更したということでもある。
それを考えるとぞっとする。
そもそも自民党憲法案は、国民主権の「憲法」のていを、なしていない。
辺野古を支援する活動をしている人たちが、それを持続しながらも、より多く、自民党の戦争参加志向と憲法改悪に対する「阻止」に向けての活動に参入できることになるなら、プラスになったと捉えるべきことである。
そもそも辺野古のたたかいじたいに、その意味はもともと備わっているのである。