高江で「土人」「シナ人」暴言をした大阪府警の機動隊員二名だけの問題じゃない。
事後の政治家たちの暴言失言妄言のほうが、もっと深刻だ。
松井府知事のさらなる言い訳「反対派が機動隊員を散々挑発し、罵倒したから、思わず言ってしまっただけ」というのは、「擁護」にも何にもなっていない。
それじたいが市民に対する「挑発」と「罵倒」に等しい。
「思わず言ってしまっただけ」と扱われて、後で上司にちょちょっと叱られた振りをしてすむだけでいいなら、今後機動隊員の彼らは何を言ってもいいというお墨付きを与えられたことになるではないか。ひょっとしたら裏では褒められているかもしれん。
機動隊員たちは「言ってはいけないことを言った」。
市民には、最低限にでも、表現の自由がある。民意の表出は民主主義の根幹である。それを「挑発し、罵倒」などとまとめるような、見てきたような嘘をつくな。
松井府知事は、「反対派」という言葉のイメージで気に入らない相手をレッテル貼りし、「何か言ってみろ、今後は「挑発」と見なすぞ」「こちらが「罵倒」と感じたらお返しにどんな暴言でも吐いちゃうぞ」と言っているのと同様なわけで、本当にひどい。
ここは大きく勘違いしている人がいるらしいから記すが、「土人」問題については、言われた人間は「私たちは「土人」じゃないのに「土人」扱いされた」ことに傷ついたり怒ったりしているのではない。私の知る限りはそうだ。
「土人」というもはや「死語」になりかけた差別語を使うこと。
しかもその差別性を強調して使うこと。
体制側の立場から、暴言を吐き捨てるように言ってもいい、という「力関係の構図」を示すために、あえて使うこと。
そういう使いかたをされている事実に対して、県民以外の人間も、ショックを受けたり、傷ついたりしているのだ。
そしてこのことは、現在この国で起きていることの「象徴」である。
抗議する人たちは、末端の機動隊員が「土人」という根拠なき差別語を使いうる、蒙昧で愚かな「権力」に蹂躙されている現実に、怒りを燃やしているのである。
宮城秋乃さんのFacebookの書き込みにある「 こちらは巻き込まれている側なのになぜそんなことまで言われなくちゃいけないんだ。侵略者がこなければいいだけなんだよ。あなたたちがいなければ沖縄は静かなところなんだ。米軍機の音も演習の音も国と市民が揉み合う大声もないんだ。高江の森をあなたの家に置き換えてみなよ。不法侵入者があなたに「お前も暴言を吐いたじゃないか」って言ったら納得できるのか?これはセカンドレイプだよ。沖縄県民に文句を言いたいならまずは沖縄に押し付けている基地を自分とこで引き取ってからいいなよ。」というのは、全くその通りである。
ついでに。
鶴保庸介・沖縄北方相の発言もひどい。
「(沖縄県東村高江の米軍ヘリパッド建設現場で、抗議活動中の市民に機動隊員が「ぼけ、土人が」と叫んだことについて)これを人権問題だと捉えるのは、言われた側の感情にやはり主軸を置くべきなんだと思います。従いまして、県民の感情を傷つけたという事実があるならば、これはしっかり襟を正していかないといけないと考えています。
ことさらに、我々が「これが人権問題だ」というふうに考えるのではなくて、これが果たして県民感情を損ねているかどうかについて、しっかり虚心坦懐(きょしんたんかい)に、つぶさに見ていかないといけないのではないか。我々が考えねばならないのは、発言をされた対象者の気分を害していますよ、と肩をたたいて言ってあげることが一番必要なのではないか。
(「県民感情が損ねられているかどうかについて、まだ判断できないのか」との質問に)私は今のこのタイミングで、「これは間違っていますよ」とか言う立場にもありませんし。また、正しいですよということでもありません。自由にどうぞというわけにもいきません。従って今のご質問で、私が答えられるとするならば、これはつぶさに見ていかざるを得ない。(閣議後の記者会見で)」
だそうだ。
「言われた側の感情にやはり主軸を置くべき」
というのは、いかにも被害者に寄り添っていそうなふうにも聞こえるが、じっさいは、足を踏まれて痛いと言っている人間に対して、「ああ、もしも痛かったんならゴメンなさい」と言っているだけである。
「もしも〜だったらゴメンなさい」というのは、謝ったことにはならない、むしろ相手を侮辱する物言いであると、私はふだんから、子供たちや若者に教えている。
「県民の感情を傷つけたという事実があるならば」
あるから問題になっているんじゃないか。
「しっかり襟を正していかないといけないと考えています」
だから「しっかり襟を正していきます」以外にあり得ないだろう。
「ことさらに、我々が「これが人権問題だ」というふうに考えるのではなくて」
これは、人権問題と考えたくない、と自白している。
「これが果たして県民感情を損ねているかどうかについて、しっかり虚心坦懐(きょしんたんかい)に、つぶさに見ていかないといけないのではないか。」
県民感情を損ねているんだよ。もちろん県民だけじゃない。「見ていかないといけないのではないか」と曖昧にいうのでは、まだ見ていない、見る気がないと、これも自白しているわけだ。
「我々が考えねばならないのは、発言をされた対象者の気分を害していますよ、と肩をたたいて言ってあげることが一番必要なのではないか。」
つまり、鶴保沖縄北方相自身は、「考えなければならない」とわざわざ言うわけだから、問題発言とは考えていないことになり、
「発言をされた対象者の気分を害していますよ、と肩をたたいて言ってあげることが一番必要」というのは、自分はそう考えないけれど、その相手が気分を害しているみたいだから気にしてやれよ、と、まわりの者が教えてやれ、と言っているだけ。
違うだろう。正す責任は、政府としては責任者である鶴保沖縄北方相自身にもあるだろう。自分で教えてやらねばならないだろう。それ以前にまず自分が謝るべきだろう。
「(「県民感情が損ねられているかどうかについて、まだ判断できないのか」との質問に)私は今のこのタイミングで、「これは間違っていますよ」とか言う立場にもありませんし。」
じゃあいったいど沖縄北方相というのは何の立場なんだ。
「また、正しいですよということでもありません。自由にどうぞというわけにもいきません。従って今のご質問で、私が答えられるとするならば、これはつぶさに見ていかざるを得ない。」
何を逃げている。さいきん顕著になってきた安倍の発言の混乱同様に、自分が何を言っているのかわからなくなっているのではないか。
こんなの辞任ものだ。本当に、何か勘違いしているのはないか。
事後の政治家たちの暴言失言妄言のほうが、もっと深刻だ。
松井府知事のさらなる言い訳「反対派が機動隊員を散々挑発し、罵倒したから、思わず言ってしまっただけ」というのは、「擁護」にも何にもなっていない。
それじたいが市民に対する「挑発」と「罵倒」に等しい。
「思わず言ってしまっただけ」と扱われて、後で上司にちょちょっと叱られた振りをしてすむだけでいいなら、今後機動隊員の彼らは何を言ってもいいというお墨付きを与えられたことになるではないか。ひょっとしたら裏では褒められているかもしれん。
機動隊員たちは「言ってはいけないことを言った」。
市民には、最低限にでも、表現の自由がある。民意の表出は民主主義の根幹である。それを「挑発し、罵倒」などとまとめるような、見てきたような嘘をつくな。
松井府知事は、「反対派」という言葉のイメージで気に入らない相手をレッテル貼りし、「何か言ってみろ、今後は「挑発」と見なすぞ」「こちらが「罵倒」と感じたらお返しにどんな暴言でも吐いちゃうぞ」と言っているのと同様なわけで、本当にひどい。
ここは大きく勘違いしている人がいるらしいから記すが、「土人」問題については、言われた人間は「私たちは「土人」じゃないのに「土人」扱いされた」ことに傷ついたり怒ったりしているのではない。私の知る限りはそうだ。
「土人」というもはや「死語」になりかけた差別語を使うこと。
しかもその差別性を強調して使うこと。
体制側の立場から、暴言を吐き捨てるように言ってもいい、という「力関係の構図」を示すために、あえて使うこと。
そういう使いかたをされている事実に対して、県民以外の人間も、ショックを受けたり、傷ついたりしているのだ。
そしてこのことは、現在この国で起きていることの「象徴」である。
抗議する人たちは、末端の機動隊員が「土人」という根拠なき差別語を使いうる、蒙昧で愚かな「権力」に蹂躙されている現実に、怒りを燃やしているのである。
宮城秋乃さんのFacebookの書き込みにある「 こちらは巻き込まれている側なのになぜそんなことまで言われなくちゃいけないんだ。侵略者がこなければいいだけなんだよ。あなたたちがいなければ沖縄は静かなところなんだ。米軍機の音も演習の音も国と市民が揉み合う大声もないんだ。高江の森をあなたの家に置き換えてみなよ。不法侵入者があなたに「お前も暴言を吐いたじゃないか」って言ったら納得できるのか?これはセカンドレイプだよ。沖縄県民に文句を言いたいならまずは沖縄に押し付けている基地を自分とこで引き取ってからいいなよ。」というのは、全くその通りである。
ついでに。
鶴保庸介・沖縄北方相の発言もひどい。
「(沖縄県東村高江の米軍ヘリパッド建設現場で、抗議活動中の市民に機動隊員が「ぼけ、土人が」と叫んだことについて)これを人権問題だと捉えるのは、言われた側の感情にやはり主軸を置くべきなんだと思います。従いまして、県民の感情を傷つけたという事実があるならば、これはしっかり襟を正していかないといけないと考えています。
ことさらに、我々が「これが人権問題だ」というふうに考えるのではなくて、これが果たして県民感情を損ねているかどうかについて、しっかり虚心坦懐(きょしんたんかい)に、つぶさに見ていかないといけないのではないか。我々が考えねばならないのは、発言をされた対象者の気分を害していますよ、と肩をたたいて言ってあげることが一番必要なのではないか。
(「県民感情が損ねられているかどうかについて、まだ判断できないのか」との質問に)私は今のこのタイミングで、「これは間違っていますよ」とか言う立場にもありませんし。また、正しいですよということでもありません。自由にどうぞというわけにもいきません。従って今のご質問で、私が答えられるとするならば、これはつぶさに見ていかざるを得ない。(閣議後の記者会見で)」
だそうだ。
「言われた側の感情にやはり主軸を置くべき」
というのは、いかにも被害者に寄り添っていそうなふうにも聞こえるが、じっさいは、足を踏まれて痛いと言っている人間に対して、「ああ、もしも痛かったんならゴメンなさい」と言っているだけである。
「もしも〜だったらゴメンなさい」というのは、謝ったことにはならない、むしろ相手を侮辱する物言いであると、私はふだんから、子供たちや若者に教えている。
「県民の感情を傷つけたという事実があるならば」
あるから問題になっているんじゃないか。
「しっかり襟を正していかないといけないと考えています」
だから「しっかり襟を正していきます」以外にあり得ないだろう。
「ことさらに、我々が「これが人権問題だ」というふうに考えるのではなくて」
これは、人権問題と考えたくない、と自白している。
「これが果たして県民感情を損ねているかどうかについて、しっかり虚心坦懐(きょしんたんかい)に、つぶさに見ていかないといけないのではないか。」
県民感情を損ねているんだよ。もちろん県民だけじゃない。「見ていかないといけないのではないか」と曖昧にいうのでは、まだ見ていない、見る気がないと、これも自白しているわけだ。
「我々が考えねばならないのは、発言をされた対象者の気分を害していますよ、と肩をたたいて言ってあげることが一番必要なのではないか。」
つまり、鶴保沖縄北方相自身は、「考えなければならない」とわざわざ言うわけだから、問題発言とは考えていないことになり、
「発言をされた対象者の気分を害していますよ、と肩をたたいて言ってあげることが一番必要」というのは、自分はそう考えないけれど、その相手が気分を害しているみたいだから気にしてやれよ、と、まわりの者が教えてやれ、と言っているだけ。
違うだろう。正す責任は、政府としては責任者である鶴保沖縄北方相自身にもあるだろう。自分で教えてやらねばならないだろう。それ以前にまず自分が謝るべきだろう。
「(「県民感情が損ねられているかどうかについて、まだ判断できないのか」との質問に)私は今のこのタイミングで、「これは間違っていますよ」とか言う立場にもありませんし。」
じゃあいったいど沖縄北方相というのは何の立場なんだ。
「また、正しいですよということでもありません。自由にどうぞというわけにもいきません。従って今のご質問で、私が答えられるとするならば、これはつぶさに見ていかざるを得ない。」
何を逃げている。さいきん顕著になってきた安倍の発言の混乱同様に、自分が何を言っているのかわからなくなっているのではないか。
こんなの辞任ものだ。本当に、何か勘違いしているのはないか。