新国立劇場で三好十郎作『斬られの仙太』上演中である。
多くの人が『斬られの仙太』の名前を知っているのは、日本戯曲史上最多上演回数を誇る(らしい)清水邦夫作『楽屋』の中で、登場人物の一人がその一場面をなぞってみたりするからである。しかしどんな話なのかを知っている人も少ないのではないか。
『楽屋』を観た多くの人が、『斬られの仙太』を大衆演劇の演目と勘違いしてしまうのだが、『斬られの仙太』は、新劇の範疇であろう。
清水さんがお亡くなりになったまさのそのときに『斬られの仙太』がものすごく久しぶりに上演中であるということは、偶然にしてもできすぎている。
新国立劇場版『斬られの仙太』は、幾らか刈り込んでいても四時間二十分の大作だが、それは少しは停滞する場面はあるものの、すっきりも見られるようになっている。
その進行のテンポに貢献もしているが、印象的なのは、舞台造形である。
ほぼ全面の八百屋舞台(傾斜している)のことは誰もが言及するが、じつは、舞台最前部の蹴込み部分が土手状になっていて、そこも人が立てるようになっていて、そのすぐ奥はいったん人が隠れられるように低くなっている。この立体構造が、使い出があるし、効果的なのだ。
で、この方式は、私が『バートルビーズ』で開発したものと同様だ。この形状は、じつは「遠近法マジック」が使えるのだが、『斬られの仙太』では、その使い方はしていない。劇場が大きいこともあるが、新劇なので不条理感は追究しなくていいということもあるのだろう。
それにしても新国立劇場の今期のシリーズ名(?)らしい「人を思うちから」というフレーズ、センスないし(寒気がするレベルの人もいるだろう)、宣伝のやり方としてもひどくはないか。だって、ポスターに、タイトルよりも遥かに大きな字で書かれているのである。
そりゃ劇の中に思いやりの心もあるだろう。だが、他に多くの視点がある。時代と人間を冷徹に見る目もある。それが社会性というものだ。なにもかも「人を思うちから」にまとめられてしまった日には、ださすぎるし、現実を見る目が曇る。
観てよかったとは思うのだが、歴史の中で『斬られの仙太』という戯曲がどう位置づけられているのか、描かれている課題は、戯曲の中ではどういうもので、それを現在上演するときにはどう認識しあるいはどう転じたのか、といったことが、求められて然るべきるという気はするのである。
緊急事態宣言で千秋楽がなくなる。
ひどすぎないか。
言いなりになりすぎていないか。
やらせてあげればいいじゃないの。