原正人氏さんが亡くなられた。彼がプロデューサーだった映画『写楽』で、ほんとうにお世話になった。
『写楽』撮影は、1994年。私は、大道芸の演出を担当した。前年に私の『神々の国の首都』を観た篠田正浩監督の指名だった。ムーブメント場面に感じるところがあったということである。私は『屋根裏』を観たアイルランドのダンスカンパニーの芸術監督にも振付で指名されたことがあって、かの国にしばらく滞在したがその芸術監督が解任されてその話が流れたことがある。いずれにせよそういう方面にもっと進んでいればよかったのかもしれないと思うこともある。
1994年、『写楽』撮影時期と燐光群初のヨーロッパツアーの時期が重なって、本番には予定通りに関われなかった。大道芸一座も燐光群メンバーで構成するはずが、撮影時期に日本にいないため、キャスティングも急遽組み直した。いわゆる小劇場の俳優が初めて映画に出たということの多い現場だったが、私も幾ばくかは貢献している。「映画はキャスティングで大半決まるのですよ」と、監督に言われたことを憶えている。燐光群メンバーもかなりいろいろな場面に出ている。
大道芸一座の振付稽古で、真田広之さん、岩下志麻さんら一座メンバーと、十日以上稽古しただろうか。ジャパン・アクション・クラブの稽古場だった。楽しい日々だった。
撮影本番も、初日にいきなりモブシーンの動きを任され、急遽イントレの上からメガホンで何百人かのエキストラを指揮したりして、映画という世界の厳しさと柔軟さを実感した。蔦屋重三郎の店を襲撃するシーンは鈴木達夫カメラマンと相談しながら、いろいろなことを模索した。話は尽きない。
取り方の役で私も出て、篠井英介さんの鬘をぱかっと外してしまうという動きをした。
そして、大道芸では、その時代にやっているはずのないストロボ・アクション等のワザを振り付けた。原さんや監督の期待に応えなければならないのであった。
そんな日々のほとんど、原さんはドーンと構えておられて、頼もしかった。
『写楽』の頃の原さんの年齢に、今の私が差しかかろうとしているという、時代の推移である。
そして、大学の大先輩で、「ライフワークとして」この映画のもう一人のプロデューサーを勤めたフランキー堺さんと交流できたことも、豊かな思い出である。フランキーさんは映画完成の直後にお亡くなりになられた。
なにしろ、四半世紀以上前なのである。
真田広之さんのストイックさにも、胸打たれた。
原さんの代表作の一つ、『戦場のメリークリスマス』は、忘れがたい。
どうでもいいけど『瀬戸内少年野球団』にも、私は復員兵の役でエキストラ出演している。不破万作さんの後ろを歩いている。夏目雅子さんは美しかった。懐かしすぎる。
あの頃は、厳しかったが、楽しかった。それから今に続いているのだ、と、思う。