若松武史さんも亡くなられてしまった。
天井桟敷という劇団は、他の劇団に比べてほんとうに特異だった。
十代の頃、寺山修司さんに憧れていたのだと思う。じつは映画『草迷宮』のオーディションを受けて最終面接(だと思う)までいったが、通ったのは三上博史さんだった。完成した映画を観て(傑作だ)、こんな恐ろしいものに出なくて助かったと思った。すごいのである。若松さんはこの映画や『さらば箱舟』も印象的だが、なにしろ映画は『サード』だろう。あの映画で彼は天井桟敷らしいことはまったくしないのに、圧倒的に映画のリアリティーを引き揚げていた。あの洗濯物の場面のぼそっとした喋り方は、忘れられない。
その後私が音響のスタッフをしていたとき、客席で観る体力がないからと、寺山さんが調光室でオペをする私の隣で芝居を観たことがある。お亡くなりになる一年くらい前のはずだ。その直前にもお話ししたことがあって、私は寺山さんに名前を憶えられていたことじたいに感動したはずである。
若松さんは天井桟敷のスターであった。武勇伝はよそから山のように聞いた。じっさいにお目にかかると穏やかな大人の方だった。
私の書いた戯曲に主演で出てくれたこともある。流山児★事務所創立20周年記念公演ファイナル、日本・インドネシアコラボレーション企画Vol.1『戦場のピクニック・コンダクタ』というやつだ。
オリジナルの『ピクニック・コンダクタ』は、もともと1991年に燐光群で上演したもので、大友良英さんが生演奏をしてくれて、巻上公一さんと私が主演だった。もともと音楽劇の要素はあったが、それを大幅に改訂したのである。タイトルは、『戦場のピクニック』と『ピクニック・コンダクタ』を掛け合わせたもので、インドネシアのミュージシャンも入った。
演出は流山児祥さん、音楽・生演奏は、Yennu Ariendra (インドネシア)+KONTA 、Muhammad Arif Purwanto(インドネシア) 。出演は、若松武史さんの他に、KONTA、塩野谷正幸、ヒロインは美加理、といった豪華キャストである。そして、青年劇場の代表を退いたばかりの瓜生正美さんが特別出演、当時八十歳だというのに、かつて軍隊で覚えのある匍匐前進まで披露してくださった。
若松さんが自分のせりふを喋ってくれるだけで嬉しかった。肉体の速度と内面の巡りのズレのようなものが、彼の持ち味だった。
ラストシーンのせりふは今も覚えている。
「いま、音楽がはじまる」だ。
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