黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

馬を早めて二十三日、小俣に着城仕り給うなり(新田より小俣へ加勢の事・その2)

2025-01-25 21:08:59 | 桐生老談記の世界

今朝、ひめちゃんは天神田を歩いて、久しぶりにケンくんちのそばを通りました。

ちょうどケンくんのママさんが出てきて、「覚えてる?」

ひめちゃんは、もちろん忘れるはずがありません

大好きだったケンくんのママさんだもの

いっぱいナデナデしてもらいました

 

2019年11月のある日、ひめちゃんはケンくんちに寄りました。

直接は逢えなかったけれど、まあ満足だったかな

 

 

 

馬を早めて二十三日、小俣に着城仕り給うなり(新田より小俣へ加勢の事、付けたり、小俣より小田原へ早打ち、義勝帰国の事・その2)

 

其の口上に、「この度不慮に大事を引き請けし所、敵即時に敗北せしむる事、一旗の大勤以て宜しきなり。殊に城主御留守といえ、家の面目世に聞こえるという。国重その類家として、大慶これに過ぎず」と思し召しける旨、仰せ越されける。

一旗謹んで承り、誠に上意有り難き旨、早速御返答仕まつり、使者は新田へ帰りけり。

去れば其日、早旦に小俣より小田原へ早打ちを以て参着する所、藤沢の辺りにて、義勝公に行き会いたれば、国城の騒動の由言上致しければ、大きに義勝公驚き給い、馬を早めて二十三日、小俣に着城仕り給うなり。



あらすじです。


由良国重の書状には、「思いがけず敵の来襲に遭遇したけれど、即座に敵を打ち破ったことは、まことに喜ばしいことである。
殊に城主が留守とはいえ、家中の面目躍如である。国重にとっても、大変うれしいことだ。」


小俣家中は、謹んで受け取り、早速返答しましたので、使者は新田へ帰りました。


また、その日(天正11年4月21日)、小俣から小田原に使者を早馬で送りました。
ところがなんと、その使者は藤沢付近で、義勝公にあったのです
国元での出来事を言うと、義勝公は驚いて馬を早めて23日には、小俣城にお帰りになりました

 



この小俣合戦で討ち死にした膳備中守の居城は、膳城(旧勢多郡粕川村)でした。


2021年11月19日、朝散歩でみんなで行きました。

ひめちゃんの膳城初登城記

本丸址にある説明板です。




「膳城は、天正8年(1580)武田勝頼の素肌攻めのあと、廃城になったと伝えられる」とあります。


『桐生老談記』 の今は、天正11年(1583)4月です
天正11年、膳城はもうすでに廃城になっているのです

 

 

 

初稿  2020.03.30  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.25



( 新田より小俣へ加勢の事、付けたり、小俣より小田原へ早打ち、義勝帰国の事   終 )

 

 

 

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未の上刻より雨風しきりにして止まらず(新田より小俣へ加勢の事 ・ その1)

2025-01-22 20:18:58 | 桐生老談記の世界

昨日はひさしぶりに少し暖かい一日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんも一緒に、膳城跡公園と近戸神社までお出かけしました

タバサねーちゃんは16歳半、よちよちながらも自力歩行できます。

おむつもまだ使用してません。

目は見えないけれど、たくましく生きています

 

2020年3月の黒柴家族です。

小次郎パパも、まだ尻尾が上がってます

みんな笑顔がありました

 

 

 

『桐生老談記』 新しい章です。
タイトルには長すぎる題名なので、タイトルは省略形になってます



未の上刻より雨風しきりにして止まらず(新田より小俣へ加勢の事、付けたり、小俣より小田原へ早打ち、義勝帰国の事・その1)



去る程に、由良成重公、病気以ての外なれば、萩野養意を召して御養生の内談最中なる所、小俣合戦の由、午中刻(午後1時)に告げ来り。

上下大いに驚き、則、加勢の為、増田伊勢守、堀口彦五郎を差し添え、都合百七十騎、小俣城に隨わされける。

未の上刻より雨風しきりにして止まらず。

これにより鹿の裏の川原に日を暮らす。


小俣より来る早打ち、小俣勝利の由、聞かしかば、加勢は新田へ帰陣す。

其の日巳刻(午前10時)に新田より小林虎之助を以て使者に立てらる。

 



あらすじです。


由良成重は病気で、その療養を、萩野養意を呼んで相談していました。
そこへ、午中刻(正午頃)に、小俣合戦の報がもたらされました。


由良家中は驚いて、すぐに加勢のために、増田伊勢守を大将に堀口彦五郎を補佐に付けて、170騎で小俣城に派遣しました。
未の上刻(午後1時から午後1時40分)に雨風しきり降り出し、いっこうにやみません。


渡良瀬川は渡ることができないで、鹿の裏の川原で日が暮れました。


そのうち小俣から、小俣勝利の報がもたらされたのです。
それで、加勢の軍は、新田へ引き上げました。
そして、巳刻(午前10時)に新田から小俣に、小林虎之助を使者にして送りました。

 



時間の記述がはっきりしません
この部分は2日間にわたる出来事です。
お昼頃、合戦の報がもたらされて、1時間かそこらで170騎で出陣はかなり難しいと思われます

新田(金山城)から、渡良瀬川をどこから渡って小俣に行くか
やはり松原の渡し、現在の松原橋付近でしょう
鹿の裏の川原がどこかわかりませんけど、松原橋付近でしょう。
豪雨で増水して、渡れなかったのです

松原の渡しは、新田(太田)側が松原、桐生側が三ツ堀ということです
あれ、三ツ堀には小俣城攻撃から退却した萩田備後守も来ています
鉢合わせしなかったのでしょうか、心配です

 

 

 

初稿  2020.03.28  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.22

 

 

(つづく)

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女渕の城に引き取りけり(寄せ手敗軍膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水越後勢水死の事 ・その 2)

2025-01-20 20:59:43 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、最近スーパードッグをしています。

おかあさんがスーパーなどにお使いに行きそうな時に、先回りして玄関で待っていて同行をしてしまうのです。

今日は帰りに山上城跡公園に寄ってきました。

ロウバイがやっと開花し始めていました。

 

2020年の1月、ロウバイの山上城の写真、なかなかないです。

この頃、スーパードッグというかお出かけのお供はタバサねーちゃんでした。

いろいろなところに行ったね

暖かくなったら、またお出かけしよう

 

 

女渕の城に引き取りけり(寄せ手敗軍、膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水、越後勢水死の事 ・その 2

備後守大いにあせり、馬に続けと下知なし、馬上歩行武者百騎ばかり逆巻く水に打入りて、よわきものは馬に取り付き、弓筈武者鐙しりにて取り付き越えければ、悪水岸に充満し、歩行武者、弱き武者、手負いの類い三十人ばかり、波間に沈み死にけり、備後守馬ばかり流して、ほうほう岸に上がり、女渕の城に引き取りけり。


あらすじというか、大意というか、非常にわかりにくい表現なので、だいたいのストーリーです

萩田備後守は、「我が馬に続け。」と指令したので、騎馬武者が百騎ほど、逆巻く渡良瀬川に乗り入れます。
弱い者は、馬に捕まったり、弓筈(ゆはず)に捕まったり、鐙に捕まったりして、渡良瀬川を渡ります。
弱い者や負傷者約30名が、波間に沈んで死にます。
備後守は馬だけ流して、ほうほうの体で岸に上がり、女渕の城に逃げ帰ります。



まるで、『平家物語』の橋合戦で、足利忠綱が先頭に立ち、宇治川の逆巻く流れを渡るシーンのようです
ちょっと、迫力不足ですけど。
約3分の1が流されてしまったのですか
足利忠綱率いる東国武者は一騎も流されませんでしたけど。


渡ったところ・三ツ堀は、現在の松原橋付近です。

桐生老談記の作者・高橋守之は山田郡今泉村と新田郡長岡村・菅塩村の管理を領主から任されていました。

桐生老談記の作者

山田郡今泉村から新田郡長岡村・菅塩村によく通ったことでしょう。

そのときには、渡良瀬川を三ッ堀(松原橋付近)で渡ったのでしょう。

松原橋を渡ると、桐生市広沢町、その南はもう太田市です。

三ッ堀から女淵城には、ちょっと遠回りな背走経路のような気もします

 

萩田さん、歩いて帰ったんでしょうか?
かなりの距離ですよ
それに、膳備中守の居城は、膳城です
女渕城では、ありません

 

2020年3月、桜の女渕城を歩いて来ました



萩田さんの記憶は何もないようですね
城主として名前のあがっている、荒井図書允・沼田平八郎は由良方の武将ですね

 

 

初稿  2020.03.26  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.20


(寄せ手敗軍、膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水、越後勢水死の事  終 )

 

 

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三ッ堀という所引き退き(寄せ手敗軍膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水越後勢水死の事 ・その 1) 

2025-01-17 21:32:43 | 桐生老談記の世界

今日も寒い寒い一日です。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、お散歩以外はしっかり室内犬しています。

今日も朝晩のお散歩で、誰にも会いませんでした。

みんなどうしてるのかな?

 

2020年3月の黒柴家族です。

やっぱり寒かったんだね

 

東の牧場にも、よく行っていました

ヤギさん家族も増えていたね

 

 

 



三ッ堀という所引き退き(寄せ手敗軍、膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水、越後勢水死の事・その1)


去る程に、萩田備後守搦め手の合戦に打ち負け、米沢山の腰に引きて味方を見るに、打ち死に手負い半死半生のやからもあり。

かくて大手の大将も、笛吹坂流れ矢にあたりて失いける。

惣じて大手搦め手八十人ばかり打たれ、かくて備後守、三ッ堀という所引き退き、河原に馬を立て見れば、渡良瀬川洪水にて、越すべきようはなかりける。



あらすじです。

萩田備後守は、搦め手の合戦に負けて、米沢山の腰(ふもとに近い所)に退却して、味方を見ると、打ち死にした者、負傷者、半死半生の人々もいたのでした。
そして、なんと大手の大将も、笛吹坂で流れ矢に当たって死んでしまったのです。
大手搦め手合わせて、80人ほどが打たれてしまい、備後守は三ッ堀というところまで退却しました。
馬上から河原を見ると、渡良瀬川は洪水で、越す方法はなさそうでした。

 

 


萩田備後守は、搦め手の合戦に負けて、米沢山の腰(ふもとに近い所)に退却したんですね。

ここには、この時の戦死者のものと言われる五輪等群があります

くらみ沢下流の米沢薬師

ここを流れる群馬県と栃木県を分ける川は清水川というそうです。


章の題名には、膳備中守とありますけど、本文中には出てきません
でも、大手の大将は、膳備中守でした
『桐生老談記』では、膳備中守は笛吹山で流れ矢に当たって死んでしまったのです



笛吹山ってどこだっけ?
それは、下の写真の山です



上野国山上から国道50号線に出て、渡良瀬川を渡り、桐生川を渡り、でも1時間足らずです。
ここは、笛吹山恵性院不動寺(ふえふきざんえしょういんふどうじ)という真言宗のお寺です
実は、鶏足寺に行く時に通ったこともあります。

最近は足利市内に行くときは、道67号線(旧国道50号線)をひたすら東に行くコースで、恵性院は通ってません。

またそのうちに、三つ葉ツツジの季節にでも足を伸ばしてみましょう




ここの三つ葉ツツジは、おしべが5本です

 

初稿  2020.03.23  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.17

 

 

(つづく)

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仏手山の峰より黒雲むらがり懸かり(小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事・その 4)

2025-01-15 17:59:54 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、今日、膳城跡公園に行ってきました

あの小俣城攻めの軍勢の出発地です。

 

2022年4月26日、ひめちゃんはタバサねーちゃんと登城しています。

ひめちゃんとタバサちゃんの新緑の膳城登城記

 

公園部分だけでなく、本丸跡まで足を伸ばしています

桜の季節にでも、また行ってみましょう

 

 

 

仏手山の峰より黒雲むらがり懸かり(小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事・その 4)

 

さて両軍の鯨波矢鉄砲は山にひびき猛火の煙老若男女おめきさけぶ、その声おびただし。

かくて搦手の軍も同時に始めて、西北の谷より寄せ手の大勢楯をたたき、鯨波を作り押し上る。

峯には矢鉄砲の筒先揃えて防ぐといえども、玉薬も及ばず種も尽きて、石岩をなげ大木を落し、半時ばかり防げども、軍勢つかれ既に危うく見えし所に、不思議や晴天なりしが、仏手山の峰より黒雲むらがり懸かり、大風天にひびき地になり渡り、石を飛ばし砂を吹きたて、震動雷電しきりに大雨車軸を流し、敵の進む先々に悪風吹き懸けければ、前後を失い流石の大勢、へきへきして覚えず谷に転び、敵も味方も戦い方を失い、八方に逃げ去り、戦は忽ちに破れけり。

 


あらすじです。


両軍とも鬨の声をあげてと矢と鉄砲の音は、山に響き渡り、猛火の煙も上がって、老若男女の叫び声はすさまじかった。
(大手だけでなく)搦手の軍勢も同時に戦い始めて、西北の谷から鬨の声を上げて押上がった。
小俣勢は必死で防いだが、鉄砲の弾も矢も尽きて、石や岩をなげたり大木を落としたりした。
一時間ばかり戦って、疲れたもうダメだと思ったとき、不思議な事に晴天だったのに黒雲が仏手山のほうから湧き上がった。
すさまじい雷雨となり、敵の進路に襲いかかった。



仏手山とはどこか?
地図では確かめられませんけど、この嵐を呼んだのは、仏手山鶏足寺だとかいいます


鶏足寺の法力によって、黒雲が寄せ手に大損害を与えるのです

確かに夕立が来そうな時間に戦しています
でも、天正11年(1583)4月20日の早旦に膳城を出発しているのです
時間がかかりすぎです

 

初稿  2020.03.21  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.15

 


( 小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事  終 )

 

 

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