黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

引太鼓を討って漸く勢を引きまとい(奈良坂合戦の事、同止まる事)

2024-12-22 20:17:06 | 桐生老談記の世界

風の冷たい一日です。

ひめちゃんもタバサねーちゃんも、一日中おうち犬(室内犬)です。

 

2020年3月の黒柴家族です

ママも元気尾末っ子たちとの(そこらまでの)ちい散歩です

元気はつらつタバサねーちゃんです

小次郎パパ、まだ尻尾が上がってます

 

 

 

 

奈良坂合戦の事、同止まる事


去る程に、和談の使者の立つ事は、其の日の辰ノ下刻(午前九時)なれば、敵味方とも知らざりけり。

かくて寄せ手の両大将、時日の使者を討たれ、無念止む事をえず、これによって、桐生勢、塩原の陣を引いて奈良阪に集まり、新田勢と一所になりて、「この上は短兵急に取りかかり、さんざんのうちに勝負をけっせん」と夜もすがら軍談まちまちなり。

暫くして高草木の一旗は夕方敵の使者を討ち取り、手合わせの合戦に打ち勝ち、重ねて三百騎ばかり催し、明五ツ時(午前八時)に渡良瀬川の岸まで、逆寄せにこそ寄せにけり。

寄せ手の大将藤生・金谷大きに怒り、「夕べには使者を討たれ、朝には逆寄せにあう事、かたがた以て味方の油断、大将の軍慮の不足なる所なり。敵河を越させては油断の上のおくれなり。此方より押し渡り、一千余人の軍兵とも一度に川を押し渡り、渡良瀬川を五度も八度も懸けつかいしつ、花火をもちらし寄せ手の両勢、殊に使者を遺恨をはらさん」と、

新手を入れ替え、追いつまくりつ、いきおもつかずして、三時計り責め立てけり。

或いはくんでおちるもあり。川に流れ水におぼれて死するもあり。

討ち取り、生け捕り、手負い、死人さんざん乱れあり、さまざまなり。

合戦最中なる所に、山中より和睦を乞う由告げ来たり。所に谷々ちり乱したる勢なれば、軍はさらにやまざりけり。

敵味方の大将、引太鼓を討って漸く勢を引きまとい、暫くいきをつきけり。

 



あらすじです。

意味不明の表現もあるので、大意です。

和談の使者の出発はその日(10月3日)の辰ノ下刻(午前九時)だったので、敵味方とも知らなかった。
寄せ手の両大将(藤生紀伊守、金谷因幡守)は、塩原に派遣した使者を討たれ無念このうえなかった。
この事件によって、桐生勢は塩原の陣を引いて奈良坂に集まって新田勢と合流して、「一気に襲撃して勝敗を付けよう」と一晩中あれやこれや相談していた。

高草木兵庫の軍は、夕方に由良勢の使者を討ち取り、手合わせの合戦に勝ち、さらに300騎ほど召集して、明五ツ時(午前八時)に渡良瀬川の岸まで、先手を打って打ち寄せてきた。
寄せ手の大将藤生・金谷は大いに怒った
「夕べには使者を討たれ、朝には逆寄せにあうなんて、油断が過ぎる。渡良瀬川を渡らせたら、とんでもないことだ。由良勢は一千余人の軍兵とも一度に川を押し渡って戦って激戦し、使者の遺恨をはらさそう」と、新手を入れ替えて、ずっと三時ほど責め続けた。

或いは取っ組み合って川に落ちる者あり
川に流れ水に溺れ死ぬ者もあり

討ち取られたり、生け捕られたり、けが人や死人がたくさん出た


合戦の最中に、黒川の本城(深沢城)から、和睦を願うことを告げてきた。
けれども、戦いはなかなかやまなかった。
両陣営とも、大将が引太鼓を打って、やっと戦いがやんだ

 


奈良坂とは、どこでしょう?
神社仏閣ではないので、『大間々町誌』の地図にもありません
『大間々町誌・別巻7石造物編』をつたつら眺めていると、第五章伝承と祭りのある石造物に、「馬持講中の馬頭観音と風の神 所在地塩原字楢坂」とありました

楢坂は奈良坂でしょう


道の一番登りつめたところは、塩原と隣村黒保根村八木原の境になるこの道は、日光・足尾への街道で、銅山街道が設けられる前は、一時足尾から馬の背で銅も運ばれていたときもあり、生活物資なども運んだ重要な街道であった。

桐生からやって来た藤生紀伊守が陣取ったのは、塩原神明社のあたり、新田からやって来た金谷因幡守が陣取ったのは、更に北の奈良坂だったのです。

渡良瀬川を渡って、黒川谷に行ける場所なのです。
だから陣を張ったのですね

高草木兵庫さん、上からの指示ではなく、勝手に戦ってます
戦国の戦いのルールから、はずれているのでは

急に300騎も召集するのは、さぞかしたいへんだった事でしょう。
あの新田義貞だって、生品神社で挙兵した時は150騎でした

明五ツ時(午前八時)って、ちょっと時間的にゆっくりな気がしますけど

渡良瀬川で大乱闘になっていたのですね。

渡良瀬川の東、塩沢(みどり市大間々町塩沢)の奥に、地図では楢坂城跡があります。

大分前に、塩沢の奥から八木原に抜けようと山道を走行してみましたが、途中で道がなくなり、引き返してきたことがあります

地図上では、深沢城から楢坂城まで直線距離で、2kmくらいです。

楢坂城跡から渡良瀬川まで、直線距離で600mくらいです。

 

大乱闘の最中に、和睦を願う使者がやって来たのです
和睦を願う使者が来ることを、両陣営とも知らなかったはずですけど、よく両陣営の大将は引太鼓を打ちました
引太鼓で引き上げるのは、戦国の戦いのルールに従っていますね

 

 

初稿  2020.02.09 & 2020.03.04  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.22

 



( 奈良坂合戦の事、同止まる事  終 )

 

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松嶋弥四郎を和睦の使者にたてられけり(久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 3)

2024-12-20 20:25:48 | 桐生老談記の世界

あれえ、カバ丸が居ない

朝のお散歩が終わって、ちゃんたちの朝ご飯も済んで、ガーデンパトロールにでたおかあさんが発見しました。

しばらく前に、七海地蔵の後ろの土中から、獅子丸と一緒に埋めたぬいぐるみのカバ丸が出現しました。

ここには、七海ママ&小次郎パパ&獅子丸が眠っています。

チューリップの求婚を埋めてビオラも植えました。

カバ丸は、獅子丸のお部屋に連れ帰ろうか散々迷いましたけど、やはり獅子丸のそばに居るのがいいと判断しました。

ところが、居ない

足跡もない

付近を見ると、50cmくらい離れた、バラアーチの根元にうつ伏せに倒れています。

何者かが、ここまで運んだのかな

疵も付いてなくて良かった。

獅子くんのそばの定位置に戻しました。

 

今日は2019年12月の獅子くんアーカイブです。

実家に蹴って半年、実家の生活を謳歌していたね

 

 

 

 

久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 3

当家の知行は、天喜五年戌酉(1057)、源義家公の御教書を以て拝領せしより此方歳霜五百八十年が間、誠に何方よりも拝領せられたる事なし。

しかしながら桐生は近国の領主なれば、数代桐生の武名に従い来たりし候。

尤も桐生は武田の旗下なるに、尚また其の旗下に随はんこと、心外なれども、古代の例を以て従わんに何の悔やむ事あるべからず。

いらざる我慢の旗を揚げて、大軍を引き請け、数代の家を破滅せしめん事、無益なり。

然るべきは和睦を請い、今度の大軍止めなば、当家繁栄たるべし。」と申されければ、阿久沢どのを初め上下の感心限りなく、松嶋弥四郎を和睦の使者にたてられけり。



あらすじです。

(松嶋式部が)
当家の知行は天喜5年(1057)年に、源義家公の御教書を以て拝領したものです。
それから現在まで580年の間、どこからももらっていません。
しかしながら、桐生は近くの国の領主なので、数代の間は従ってきました。
今桐生は武田の支配下にあるのに、またその下に従うことは心外なことですが、古代の例を鑑みるとたいした問題ではありません。
へたに籠城して滅亡しても無益です。
和睦を願って、今回の大軍を止めましょう。
そうすれば、また当家の繁栄があるでしょう。」と、いう。

阿久沢氏を初めとして、身分の上の人も低い人も、みんな納得して、松嶋弥四郎が使者にたてられた。



黒川衆の領地は、天喜5年(1057)年に源義家の御教書を以て拝領したとされてきました。
しかし、最近はそれは嘘であるという説の方が、一般的になりつつあるようです
黒川衆が、独立性を保つ為に造られた嘘だとか
戦いに敗れ流罪になる安倍宗任(あべのさだとう)に、奥州から上州の黒川谷まで何百人も付いてこれる訳はありません

桐生が武田の支配地になったと、作者は度々いいます。
実際はどうなのでしょうか?
現在の桐生市街にその記憶はないようです

ここでは、黒川衆は、しっかりまとまった一つの家中のように描かれています。
しかし、実際は、もう少しゆるやかなまとまりだったような感じを請けるのですけど


初稿  2020.02.23

改稿  2024.12.20

 

( 久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事  終 )

 

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新田に対して甚だ敵立の所なり(久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 2)

2024-12-18 22:34:25 | 桐生老談記の世界

獅子丸が突然の事故で逝ってしまっってから、3年が過ぎました。

ひめちゃんと一緒に10歳の誕生日を迎える寸前でした。

最近、獅子丸と一緒に埋めたぬいぐるみのカバ丸が土中から出現しました。

このカバ丸は、彼が養子に行くとき持って行ったものです。

「サツマイモが大好きだった獅子くんに届けてね」と、ムーハウスガーデンで採れたサツマイモを託しました

 

2020年2月の黒柴家族です。

 

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出る事が多かったようです

 

 

 

久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 2

松嶋式部申されけるは、

「某、懸案を廻らすに、尤も先年より桐生の支配を受け来たりしに、近年新田の領分となりしより、この方桐生への出仕をおこたり、武田に隨身する事、実に新田の武名をかろんずるににたり、その上里見兄弟が徒党して、高津戸に住居を結ぶといえども、終に新田より是を破る。かれこれ当家の振る舞い、新田に対して甚だ敵立の所なり。新田の城主立腹さるるもことわりなり。

 

あらすじというか大意です。

松嶋式部が言いました。
私があれこれ思いますのに、以前は桐生の支配を請けてきたのに、近年桐生が新田領となって以来出仕していません。
武田に隨身することは、新田の武名を軽んずることになります。
そのうえ里見兄弟を援助した件でも、新田は怒ってます。
新田の殿様が立腹するのも、もっともです。



黒川衆は独立性を保ちながら、桐生氏・上杉氏・由良氏・北条氏に従って生き抜いてきました
武田に隨身したとありますけど、実際はどうなのでしょう
武田氏は東上州をどこまで支配したのでしょう

山上城には、武田の丸馬だしの遺構があるそうです
発掘したけれど、埋め戻したとか。
山上城のお隣、膳城は武田勝頼の素肌攻めで落城したといいます。

 

 


初稿  2020.02.20  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 

改稿  2024.12.18

 

(つづく)

 

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久留川の亡ぶる時節到来なり(久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 1)

2024-12-17 15:10:54 | 桐生老談記の世界

寒い朝です。

ひめちゃんは堀之内を西に出て、天神田を歩いてきました。

今日も黄色い帽子の集団(小学生の集団登校)に出くわしましたけど、静かにやり過ごせました

 

2020年2月の黒柴家族です。

小次郎パパも七海ママもまだ元気でした

寒くとも、しっかりお散歩していました

 

この2月は、常広寺のインドツアーに参加してインドに行ってます。

インドの犬は人間の周りで、自由に生活していました。

みんなどうしてるかな

 

 

 

『桐生老談記』 新しい章です。

久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その1

去る程に、久留川の本城には、家人一旗会合して評定初後の所に、高草木合戦の由告げ来たり。

殊に新田、桐生より大軍にて押し来たり。高津戸、塩原のほとりに陣を取る。所々の勢を待ち合わせて、明五日の朝五ツ時、久留川に乱入候由、忽ちに告げ知らせ来たりしかば、

久留川の亡ぶる時節到来なり、たとえば謀事(はかりごと)を万里に廻らしたりといえども、勝つことただ幕の内に入るといえども、かの張良が庭訓を思い思いに尽くされけり。


あらすじです。

そうこうするうちに、黒川の本城(深沢城)では、黒川衆が会合して評定していました。
そんなところに、高草木兵庫之介が合戦したという報告が届きました。
「新田・桐生から大軍が押し寄せてきます。彼らは高津戸・塩原に陣を取りました。あちこちの軍勢を待ち合わせて、明日の朝五ツ時(午前8時)に、黒川に乱入します。」という急ぎの報告があったのです。
「黒川の滅びる時節がやって来たのだなあ。どんなはかりごとを巡らせても、まあときたまちょっと勝利したとしてもと、張良のようにあれやこれやと策略を考えるのでした。



幕の内とは、幕と幕の間で幕が下りている時です。
そんなに長くはないでしょう。
ちょっとは、由良勢に勝つかも知れないということです

朝五ツ時(午前8時)とは、ゆっくりです

「黒川の滅びる時節がやって来たのだなあ」、そんなことはありません。
実際、彼らはその後の存在し続けます

張良は、漢王朝の成立に貢献のあった優れた軍師です。

江戸時代には、庶民も知っていたのです

 

 

初稿  2020.02.04  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.17

 

(つづく)

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新田の使者三人塩原へ通りけるを(桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その 4)

2024-12-13 21:09:49 | 桐生老談記の世界

最近ひめちゃんはよく体をなめてます

かゆいのかな?

おかあさんが、動物病院にタバサねーちゃんの目薬をもらいに行くのに同行、ついでに受診です

皮膚炎になりかかっているということで、かゆみ止めの注射をしてお薬が1週間分でました。

 

深沢城の写真を探していると、2020年4月の元気な黒柴家族です

みんな一緒に楽しかったね

 

 

 

桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その 4


申の下刻ばかりに神梅の寄居に人を走らせ、谷々の役所に相触れ大いに騒ぎ、動転して皆々本城に集まりける。

かくて高草木は寄瀬山の麓に出て、敵の陣を伺いけるところに、新田の使者三人塩原へ通りけるを、兵庫は寄せ手の先陣と思い、手勢に下知して使者を真甲に取り巻き責めける。

使者は当地不案内、殊に無勢にして、さんざんに打ち負けるも、日暮れに及んで、つまりつまりに追い落とされ、三人とも討たれけり。

去る程に不慮の討ち死にと、聞く人これを惜しまれけり。

 



あらすじです。


午後5時頃、由良勢が攻めてきたとの報告がもたらされ、黒川谷の人々は動転して本城に集まった。
高草木兵庫は、寄瀬山の麓に出て敵の陣を伺っていたところに、新田の使者三人が塩原へやって来た。
兵庫は、彼らを寄せ手の先陣と思い、手勢に下知して使者を取り巻いて責めたてた。
使者は当地不案内で、殊に無勢にして、さんざんに打ちのめされ、日暮れになると最後には、三人とも討たれてしまった。
これは思いがけない討ち死にであると、この話を聞く人は残念がった。

 


神梅の寄居とは、どこか?
神梅城が深沢城だから、深沢城のことと考えるのが自然かな
みんなが集まった本城も深沢城でしょう



ここはみどり市ではなく、桐生市黒保根町なります。
深沢城なのに、歴史を無視しした合併で、ちょっとわかりにくくなってます

高草木兵庫が、新田勢からの桐生勢への使者を捕らえたのが、寄瀬山の麓です。
桐生勢は、塩原の神明の森に陣取ってました。
寄瀬山は塩原の近くだと思いますけど、場所が確認できません

使者は当地不案内、こんな設定はあり得ないでしょう
地理感覚が無かったら、使者は務まりません
全員とは言いませんけど、最低1人は道を知っていなければ、ましてこんな大事なときに
ちょっと無理な設定のように感じます
三人とも討たれてしまったのも変です
せっかくだからいろいろ聞き出すべきです

 

 

初稿  2020.02.01  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.13

 

 


( 桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事 終 )

 

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